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坪井 直先生のご逝去を悼む

坪井直先生が2021年(令和3年)10月24日にお亡くなりになった。

1925年生まれの坪井先生は20歳のときに広島で爆心地からわずか1.2 ㎞の距離で被爆された。この距離での被爆では、放射線の線量の高さはもちろんのこと、全身にわたる火傷も重度であったのは言うまでもない。しかし家族の手厚い看護のもとに、生死の境を40 日間さまよった後、かろうじて命を取りとどめたとお聞きする。戦後は中学校の数学の教師を務め、さらに自分の経験や被爆体験を語り、常々「ネバーギブアップ」のお言葉のもとに被爆者運動をけん引し、このたび、その生涯を閉じられた。享年96才であった。

(公財)放射線影響研究所(放影研)は定款に基づいて、原爆被爆者を対象とする研究を行っている。この研究を進める上で、放影研は坪井先生に多くのご助力をいただいてきた。放影研にとって研究に参加くださる被爆者ならびに地域の方々や組織との良好な関係を持つことは、研究の基盤として極めて重要である。坪井先生は、放影研が地域との関係を緊密にするために設置した地元連絡協議会の委員を1998年から務めていただき、さまざまなご意見を賜った。また2005年の放影研設立30周年記念式典では、来賓として記念植樹式の挙行とご祝辞をいただいている。さらに、2007年の米国学士院において開催されたABCC/放影研60周年を記念するシンポジウムでは、最終演者としてご登壇いただいた。坪井先生は、被爆者としての立場から放影研研究の重要性を指摘したうえで、核兵器廃絶に向けて「ネバーギブアップ」のお言葉で講演を終えられ、並み居る米国の科学者たちのスタンディングオベーションと万雷の拍手をあびられた。最近では2017年の70周年記念式典でもご講演をいただいている。またこれからの放影研の研究にとって極めて重要な保存試料の利用について2018年に設置された外部諮問委員会でも、「これからも倫理を忘れず被爆者を大事に扱って欲しい」との貴重なご意見を賜っている。しかしこれが、放影研の公的な会合での最後のお言葉になったのは残念である。

原爆投下の悲惨さとその不条理はあらためて言うまでもない。ただそれに向き合う坪井先生の姿勢は独自の明快な論理に立脚していた。すなわち「悲惨」との主観にとどまるだけではなく、その背景にある被爆の実態について客観的に科学の面から記述し解析することの重要さを説いておられた。先生のこのようなご姿勢は、まさに放影研の設立の理念そのものにほかならない。そして常に前を向いて進むというお考えに基づくのであろうか、私が知る限り、放影研のABCC時代の過去について厳しく追及されることはなかった点は、現在の研究所にある我々が常に心にとどめておくべきことであろう。

科学と倫理の双方に立脚した坪井先生の極めて明快なお考えは、先生の科学に対する強い好奇心と、「ネバーギブアップ」に象徴される努力を惜しまない態度に基づいているように思われる。2017年の2月ころであったか、広島県原爆被害者団体協議会(広島県被団協)事務局に坪井先生を訪問した時のよもやま話で「今回の大学入試センター試験の数学の問題に挑戦して全部解いた」とのことであった。私は、たとえ数学の教師であったにしても92歳の高齢者が大学受験生レベルの数学の問題を解くことに仰天した。

坪井直先生は、論理の、そして倫理の、さらに努力の人であった。先生のご逝去を心から悼む。

(公財)放射線影響研究所 理事長 丹羽太貫

放影研設立30周年記念式典で被爆アオギリを植樹する坪井直先生(右)と
大久保利晃前放影研理事長(左)(2005年11月)