George B. Darling, 1906-1995年

George B. Darling博士は 原爆傷害調査委員会(ABCC) 所長を1957年から1972年まで務めました。米国学士院によってABCCに招聘された時、博士はエール大学の人類生態学教授でした。

「Darling博士は、2年のつもりで来日し、結局15年も滞在した」。また、「博士が所長に就任したとき、広島・長崎の診療所は研究分野でも、また管理面でも混迷を呈していた」と、米国国立がん研究所研究員Robert W. Miller(1958年から1960年までABCCの遺伝学部に在職)は、当時を振り返って語っています。

ABCCのDarling時代の回想(RERF Update 3[1]:5-7, 1991)の中で、Seymour Jablon放影研非常勤理事は、「ABCCは研究効率があまりにも低く、できることはすべてやり尽くしてしまったので段階的に縮小閉鎖すべきであると強く主張する者もいた」ため、閉鎖するかもしれないという事態に直面していたと書いています。米国学士院によりABCCのプログラムを再検討すべく派遣された フランシス委員会 の3人の委員の1人であった Jablon氏は、被爆者と非被爆者から成る明確に定義された固定集団を設定し長期間にわたり追跡調査すべきであるとした同委員会の勧告の趣旨を思い起こし、次のように語っています。「Darling博士はフランシス委員会の勧告を真摯に受け止め、内科部長や病理部長が変わるたびに彼らの考えでプログラムが変更されてはならないと頑強に主張したものだ」。

1948年から1975年まで国立予防衛生研究所の広島支所(ABCCに対応する日本側機関)の所長を兼任したABCCの槇 弘準所長は、「Darling博士は日本の習慣と日本人の感情を深く理解しておられたと思います。それは、博士が霊安室を作られたことからも察せられます。博士はまた追悼法要を催し、高齢の調査対象者の自宅を訪ね長寿を祝われました。Darling博士が長く在職されたお陰で継続され、日米関係が改善されたということは疑いありません」と語っています。

ボストン出身のDarling博士は、マサチューセッツ工科大学を卒業後、ミシガン大学で公衆衛生学の博士号を取得しました。

Darling博士は、1995年3月30日、米国の自宅で亡くなりました。享年89歳でした。

(「回想録」RERF Update 7[2]:7, 1995より抜粋)

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