リニューアルオープンの広島平和記念資料館を訪ねて

広報出版室 堀向 玲子

2019年4月25日「広島平和記念資料館 本館」がリニューアルオープンしました。1955年にオープンしたこの資料館、1991年の改装以降、展示内容の変更はありませんでした。今回、耐震工事もあり2017年から閉館となっていましたが、更新計画の策定から約12年もの時間をかけ、総力をあげて展示内容を一新したと聞いています。

リニューアル後は、どのような展示なのか? 何を訴えかけているのか? 放影研で施設見学者に被爆の実相を「科学的な観点から」説明し、「調査・研究の成果」を話している私にとって、とても興味深い展示です。難しい研究内容を一般の方々に出来るだけ分かりやすく説明しようとしている私たちにとって、資料館の展示の仕方はとても勉強になるはずです。5月10日、上司に願い出て、半日ほど時間をもらい見学に出かけました。以下は私が感じたままを書き留めたものです。

リニューアルした資料館本館

街の壊滅

東館の長いエスカレーターを修学旅行生に混じって上がって行くと、戦前の広島のパノラマ写真が見えてきます。重厚な趣の広島県産業奨励館【現原爆ドーム】、瓦屋根が続く中島町【現平和記念公園周辺】の街並み、にぎやかな商店街、楽しそうな笑顔がいっぱいの小学校の記念写真など。戦争の陰が忍び寄ってくる中で懸命に日々を生きている人たちの写真を見ながら次のゾーンへ。

壁いっぱいに貼られた写真は被爆2~3ヵ月後の広島市の様子。本当に何も残っていません。立体的に残っているのはコンクリートの建物の残骸と鉄塔だけ。それと幹だけになった木々がひょろひょろと頼りなげに立っている。(たった一発でここまで壊滅させられるとは・・・)

暗がりの中に見えてきたのが原爆投下時の広島市のCGです。鳥になったように上空から広島市を眺めることができます。すると1発の爆弾が現れて落下してゆき、次の瞬間、緑豊かなデルタ地帯が閃光に包まれ街は破壊されます。爆風が広がり、煙に覆われます。(この大きな雲の下でどれだけの人たちが傷つき死んでいったのだろう)さきほど見た写真の子供たちや商店街の人たちが目に浮かんできます。

リニューアル前の展示は広島市の模型の上に赤い電球みたいなものがぶら下がっていただけでしたが、CGでは爆風や真っ黒な煙の動きをリアルに感じて、思わず後ろにのけ反りそうになります。(放影研でもこんな技術があれば色んな説明がわかり易くなるかな?)

 投下される原子爆弾のCG

被爆の実相

ここからは本館、被爆の実相。展示は学徒動員で建物疎開をしていた10代前半の生徒たちの遺品と家族の手記です。ボロボロになった上着やズボンと共に一人一人の名前と被爆時の状況が記されています。家族に会いたい一心で懸命に家までたどり着いた女子生徒、形見を家族に渡して欲しいと行きずりの人に頼んで息絶えた男子生徒、被爆後何年経っても我が子を待ち続ける母親。楽しみにしていたのに食べることができなかったお母さん手作りのお弁当。(食物が少なくなる中、好きな物を食べさせようと精一杯工夫して作ってくれたお母さんのお弁当なんだよね、食べられなかったね)数々の遺品と残された家族の慟哭が胸を突き上げてきます。さきほどまで話をしながら見学していた修学旅行生がじっとおし黙り、目を赤くさせながら手記を読んでいます。彼らと同じ若い命が簡単に奪われてしまった憤りや悲しみをぐっと堪えているよう。

 ずたずたになった服


黒焦げになった弁当(右端)写真寄贈:折免シゲコ氏

重い足取りで隣の部屋に入ると、そこは被爆者が描いた絵と証言の部屋。紅蓮の炎や黒焦げになった死体の絵。皮膚が剥けて幽霊のように彷徨う負傷者の絵。川に流れる無数の死体に向かってわが子の名前を呼び続ける母親の絵。思い出すだけで辛く苦しいだろうに。この惨事を次世代に伝えなければという使命感や、助けを求める人、苦しんでいる人をどうすることもできずに自分だけ生き残ってしまったという悔恨の思い。一人一人のエネルギーの大きさに押しつぶされそうになります。

被爆者の描いた絵

救護所の絵や写真には直視できないものがあります。顔全面に火傷を負って目・鼻・口がどこにあるのかわからない女学生の写真。飛び出した目玉を支えている生徒の絵。(こんな地獄がこの世にあって良いの?)涙と鼻水でぐっちゃぐちゃになりながら足を進めてゆきます。後ろで外国人女性のすすり泣きが聞こえてきます。(この哀しみと怒りに国境はないのよね)自分も負傷しながら救護にあたる人たちの姿を見て、ABCC*-放影研が「調査をすれども治療はしない」と非難されてきたことを思い出します。当時様々な事情があったことを考慮しても、もっと何かできなかったのか?と、一人の人間として問い直してしまいます。

核の現実

本館から東館へ戻ると核の脅威についての展示です。現在地球上にはおよそ1万六千発程度の核兵器があるのだとか。核兵器廃絶を唱えながらも一方では核兵器を持とうとする国が後を絶ちません。(もっと広島から声をあげなくちゃ)

広島と長崎の原子爆弾の模型

今回のリニューアルから、被爆者である兒玉光雄さんの染色体写真の展示があります。メディアテーブルで選んでゆくと閲覧できます。兒玉さんは爆心地から850メートルの距離で被爆し、4グレイもの放射線を浴びました。生き残った人はほとんどいない距離です。兒玉さんの染色体は異常な部分が10か所あり、5個の転座(染色体の一部が切断され、同じ染色体の他の部分または他の染色体に付着・融合すること)がはっきりと見えます。兒玉さんは20回以上ガンの手術を受けていますが、今も精力的に被爆の実相を訴え続けている被爆者の一人です。放射線と人体への影響を科学的に説明することも被爆地の重要な仕事の一つだと思います。

放影研広報出版室の職員として

放影研の研究は集団で考えます。12万人の被爆者の寿命調査、7万7千人の被爆二世調査などの疫学調査はとても大切です。調査研究は集団のデータを計算して、より正しい数値を出すことです。これらの調査結果が国際放射線防護委員会(ICRP)で採用されて、世界中の人々を、例えば空港や医療現場、宇宙などで放射線の影響から守っています。これはこれでとても素晴らしいことだと思っています。

が、ちょっと待って。その何万人の犠牲者一人一人に両親からもらった美しい名前があり、顔があり、大切な家族があり、将来があったことを絶対に忘れてはいけない。このことを胸に「原爆放射線影響の科学の面からの語り部」として研究所施設案内をしなければ!

被爆者に「初心に戻って仕事をしなさい」と教えられて、修学旅行生と外国人観光客でごった返す資料館を後にします。

原爆ドームと慰霊碑

* ABCC 原爆傷害調査委員会(Atomic Bomb Casualty Commission)。放影研の前身で1947年に設立。米国主導の研究機関であったが、1975年に日米共同運営の放影研に改組された。