ABCC呉研究所の思い出

阿賀岡 豊 (資材課、1948-1985年)

阿賀岡 豊氏

呉研究所は1948年の秋、比較的呉市の中心部に近い呉共済病院と道路一つはさんで約1、800平方メートル(約545坪)の敷地内に建てられたミニ・ラボラトリーでした。その敷地の約1/2はモータープールが占めていました。研究所は内科診察室、レントゲン室、血液学室、血清学室、クリニック準備室、管理事務室、レセプション等で構成されており、研究所から少し離れた所に小型ボイラー室と配車室の別棟がありました。職員は米国人のスタッフ、日本人医師、看護婦、日本人一般従業員を合めて約50人が勤務していたと思います。

当時ABCC研究所本部は広島市宇品地区にありましたが、スタッフは呉市に駐留していた連合軍の宿舎や資産家の大きな邸宅、沢原ハウスやブラックハウス(三宅邸)に宿泊し、広島市へ車で通勤していました。

さて、1949~50年当時の国内の自動車は、トラック以外の乗用車やバスはほとんど走っていませんでした。トラックはガソリンが入手困難のため、木炭からgasを発生させるための装置、ガス発生器を荷台に積んで走っている状態でした。呉モータープールには米国F社製の大型ステーションワゴン、W社製ジープ、ステーションワゴン、パネルトラック、ウェポンキャリアー(通称スリークオーター)、ジープ合わせて十数台が配置され、ステーションワゴンは米国人らスタッフの呉-広島間の通勤用に、スリークオーターは日本人従業員用に使用されました。交通事情の悪い当時、日本人従業員の皆さんに感謝されたものでした。パネルトラックは呉市にあった軍政部と呉研究所を往復して、公用文書や郵便物等の専用車として配置されていました。 数台のジープは、研究所へ来られる患者さんの送迎や、ペイションコンタクターの連絡用及びその他の公用に供用されていました。

これらの車を運転する運転者は、相当厳しい運転技術試験を受けて採用された優秀な人たちばかりでした。呉モータープールで採用された運転者のほとんどは、木炭トラックを運転していた人たちで、木炭ガス発生器の操作の苦労から開放され、米国製の乗用車やジープの性能の優秀さに、またピンク色のハイオクタン価ガソリンの効率に目を見張ったことと思います。アクセルペダルを少し踏むだけですばらしい加速が得られることに驚いたに違いありません。またステアリングホイールの内側についていたリング式クラクションの音は、道路を歩いていた私たち日本人には初めて聞くソフトな音で、乗っている人たちや車をうらやましく思いました。

終わりになりましたが、大切な事を述べてみたいと思います。日本人は戦後米国より食糧を援助され、また医学、心理学、機械、電気、電子、造船、航空、ロケット工学、統計学等、その他あらゆる分野で教わり育てていただきました。今日の日本があるのは米国民、米国政府の親切、寛大さのお陰だと言っても過言ではありません。現在米国が不況で困っているとき、今度は日本人が、日本政府が米国民にお返しをする番だと私は信じています。 (1988年1月記)


この記事は放影研ニューズレター14(40周年記念特集号):49、1988の再掲です。

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