ABCCにおける初期の経験

Seymour Jablon (統計部、1960-1963年、1968-1971年)

Seymour Jablon

ほぼ30年に及ぶABCCの歴史を簡略に要約することは私にはできません。また、私が知り合い、共に働いた多くの日本国内外の友人および同僚についてすべてを語ることもできません。それで、その代わりに40年前の1948年、すなわち、私が最初にABCCという組織を知ったときのことを振り返って見たいと思います。当時私は、Gilbert W.Beebeを長とする米国学術会議医学統計調査室の前身の一員になったばかりでした。我々の事務所はDr. Herman Wigodskyを長とし、ABCCと呼ばれていた一団の事務所の近くにありました。私はABCCについて名前以外は何も知りませんでしたが、日常の会話の中で時々ABCCのことを耳にしました。広島・長崎の対照都市として呉と佐世保をそれぞれ用いることができるかどうかが重要な問題となっていたように思います。私はこの会話を聞いていましたが、何も役に立つことはできませんでした。

1950年代初期に一つの重要なできごとがありました。それは、ABCCと我々の調査室が所属している医学部の部長にDr.R.Keith Cannanが就任したことです。今更秘密という程のことではありませんが、当時、一部の人々はABCCが方向を見失ったと考えていました。振り返って見ると、その理由は明瞭です。必要とされていた研究は主に疫学的及び生物統計学的なものであったにもかかわらず、主に内科学・病理学の分野の医学研究者がABCCを方向付け、そのプログラムを作成していました。1940年代後半には、放射線の後影響はまだほとんど知られていなかったことに注意すべきです。放射線に特有の悪影響が発見されるかもしれないと考えた者もありましたが、何も発見されませんでした。1955年にDr.Cannanは、ABCCプログラムの失敗を認めず、Michigan大学の疫学部長であるDr.Thomas Francisに対して、少人数を組織して同プログラムの状況を調査し、できれば改善策を講ずるよう要請しました。やがて、NIH心臓研究所の生物統計ブログラムの長であったFelix Mooreが加わり、幸運なことに私もこの委員会に参加するよう求められました。

我々は11月に広島に到着しました。私はそれまで日本に来たことがなく、この国での経験は私にとって衝撃的なものでした。広島はかなり再建されていましたが、破壊の跡は依然として認められました。てんやわんやのうちに我々は10日間でブログラムの状態を可能な限り調ベ、とるべき措置を文書にまとめました。これがFrancis報告と呼ばれるものです。

Francis報告は何をなすべきかを示したものですが、同様に重要なのは誰がなすべきかでした。プログラムの実施は主として日本側とされました。しかし、当時は慢性疾患に関する疫学及び生物統計学は米国では依然として初歩的段階にあり、日本ではそれ以上に未発達の状態にありました。更に、日本人科学者を本人の大学での将来を犠牲にすることなくABCCに招くことはほとんど不可能でした。したがって、米国から研究者を連れて来ることが必要と なりました。この問題を解決することができたのは、UCLAの病理学教室とYale大学の内科学教室がABCCの病理部と臨床部に職員を派遣することに同意したためです。Gilbert Beebeは米国学術会議医学統計調査室が統計部門を担当することに同意しました。ABCC再建が最終的にできるようになったのは、当時Yale大学医学部の教授であったDr. George B. Darlingが長期にわたって専門的指導を行ったからにほかなりません。その後Gilbert Beebeと私がABCCで六年間ずつ在職し、この研究所が将来どうなるか分からない脆弱な植物から現在の放影研-世界初の疫学研究所の一つであり、またヒトに対する放射線の影響に関する主な情報源-になるまで見てきました。


この記事は放影研ニューズレター14(40周年記念特集号):21、1988の再掲です。

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