思いつくままに

築城 良 (長崎受付、1951-1964年)

築城 良 氏

講和条約締結で、それまで勤務していた米軍政府(後に民政府と呼ばれた)での仕事から解放されて、のんびりしていた私はある日、突然ABCCに呼ばれて、Miss Cavagnaroから「ABCCに勤めませんか?仕事は近く長崎ABCCに診療部門を開設するので、その受付の仕事。OKならば来週からしばらく広島に行ってtrainingを受けてくるように」との話。別に断る理由もなくその場で「ハイ」と返事してしまったのが1951年の初夏でした。

秋がきて長崎でのClinicの開設、小児科のProgramが始まり、Dr. StanleyとPhyllis Wright夫妻が着任されました。お二人のときにDr. Stanley Wrightは診察が終わると Reception Roomに出て来て、一人一人の母親に丁寧に説明をされるのです。それは子供を一人の人格として認めた上で、今母親はその子に何をしてやらなければならないかを考えなければいけないという、現在ではごく普通のことなのですが、当時としては全く新しい考え方で、そばで聞く私も目が覚める思いでした。

ある日、一人の少女を母親が背負って来所しました。その少女はもう小学校の高学年ぐらいで、背負われるにはちょっと大き過ぎました。「なぜそんなに大きな子を背負うのですか?」というDr. Phyllis Wrightの問い掛けに、尋ねられた方が戸惑いました。当時としては車いす等、まして、歩行訓練で歩けるようになるという考え方も私たちはもち合わせませんでした。診察の結果、「お母さんが年をとって背負えなくなったら、この子はどうなると思いますか。歩くためのけいこをしましょう」とのDr. Phyllis Wrightの厳しくも熱心な説得の結果、その母娘の1週1回の通所が始まりました。

少しずつ…少しずつ…その子の足は強くなりました。母親の手を借りずにいすの背につかまってほんの一瞬一人で立てるようになったとき、また、何にもつかまらずにしばらく立っていることができるようになったことを報告する母親の顔と、次のstepを!と励ますDr. P. Wrightの声等、今も目に浮かびます。

やがてある日―その少女は自分で松葉杖をついて玄関を入ってきました。

今、私はボランティアセンターに勤めています。場所柄もあって、ここでは様々な障害をもった人たちやその家族たちとの交流があります。今では誰でも知っている車いすの利用、リハビリテーションの重要さ、それと最も大事なことは、人に与えられた可能性の無限を信じて取り組む姿勢だということ等を、30数年も前に教えてもらっていたこと等が私の大きな財産になっていることを思います。

ABCCが設立されてから40年。多くの被爆者の奉仕(あえて奉仕と言いたいと思います)の積み上げが、昨年のチェルノブイリでの大事故への対応に大きく貢献したと聞きました。しかし、このようなことのためにABCCは存続してきたのではなかったはずです。このような悲しいことに使われるのではなく、より明るい健康な社会づくりの基礎とされる日がくることを願ってこのまずい文を終えます。


この記事は放影研ニューズレター14(40周年記念特集号):43、1988の再掲です。

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