私の原爆体験とABCCの思い出

調 来助 (放影研非常勤理事 1975-1983年、顧問 1984-1986年)

故 調 来助理事

長崎に原子爆弾が投下されたのは1945年8月9日で、私が外科教授を勤めていた長崎医科大学は、爆心地から0.7kmの近距離にあったため、校舎も付属病院も灰じんに帰し、角尾学長以下職員と学生を合わせて892入が死亡した。私は病院の教授室内で被爆したが、コンクリート壁による遮蔽が強力だったので、外傷も火傷も受けず、三週間後に発病した放射能症も、幸いに一か月間の安静療養で完全に治癒した。このようにして私は、原爆で死亡した内藤教授の跡を継いで付属病院長に任命された。

長崎医大の建物が潰滅して使用に耐えなくなったので、1945年9月下旬に職員及び学生の大半が大村海軍病院に集まり、入院中の被爆者の治療とともに、学生の講義もここで行われることとなった。原爆症で臥床中の私が、急遽大村に駆けつけたのはもちろんである。

当時大村海軍病院には、東大の都築教授が十数人の医員と共に滞在して、原爆障害の研究に徒事しておられたが、アメりカの医学者たちもDr. Henry L. Barnettを団長とする数人の医師や、10月から交替したDr. Shields Warrenたち十数人がいた。私は長崎医大の付属病院長として、これらの研究員たちに全面的に協力し、便宜を図りつつ友好親善に努めたが、その間に生き残りの医師や学生の協力を得て8、000人余りの被爆者を調査し、それを一年がかりで整理して四編の論文を書いた。

長崎にJNlHを含むABCCが開設されたのは、原爆後三年を経た1948年であったが、私のサイン帳によると、ABCCの初代所長は米国の公衆衛生看護婦Mrs. Elizabeth J. Creightonで、彼女とは新興善小学校内にあったABCCの事務所でしばしば会ったことを覚えている。JNlHの代表者は永井 勇氏で、同氏の厚意により私の甥の手塚 博を所員に採用してもらい、小さな部屋を事務所にして、その看板の字を私が書いてやった記憶がある。

長崎ABCCの二代目所長は倉田和雄氏で、Robert K. Kurataという日本語の上手な二世の人であった。三代目はDr. James N. Yamazakiで、やはり日本語の達者な二世の小児科医で、Ohio州立大学から来たDr. William J. Schullと一緒に、1950年に長崎医大の被爆者13人を集め、 私の司会で座談会をやったことがある。 Dr. Schullは長い間ABCCにいて私とも親しくなっていたが、昨1987年に別れを借しんでアメリカへ帰った。

またDr.Yamazakiは、私が大村海軍病院にいたころに書いた上記の論文を、英語の達者なABCC所員の浜崎老人に英訳させ、それをDrs. W. S. Adames、S. W. Wright、J. N. Yamazakiの三人で抜粋し、私の名で1953年のMilitary Surgeon(Vol. 113、p251~263)に発表している。彼にはアメリカ旅行の際にLos Angelesで会ったが、4年前に所用で長崎に来たときも数人で歓迎会を催した。ABCCでは忘れられない一人である。

四代目の所長はStanley W. Wright。私のアメリカ旅行の際はUCLAに勤務していて、彼の自宅で大変歓待された。五代目はRichard C. Scott。地味な病理学者で、アメリカ旅行の際はRochester、NYの大学にいた。

六代目はFrank H.Connellで、長崎ABCCの所長の中では最も親交の深かった人である。温厚且つ親切な人で、私の教室では辻助教授ほか数人のアメリカ留学に便宜を図っていただき、私自身もGHQのLieders Programの一員に推薦していただいて、三か月間アメリカ各地の大学や大病院を視察することができた。これもひとえに彼の尽力によるものと感謝している。

1948年にABCCが発足したころ、私はよく「ABCCは今後少なくとも20年継続させねばならない」といううわさを耳にしたが、20年といえば1968年に相当する。それと関係があるかどうか分からないが、1969年2月15日に、私はABCCから直径7.5cm、厚さ0.5cmの円い銅板の優功章をいただいた。長崎では古屋野先生と私だけで、原子力委員長Dr.Dunhamから手渡され、ABCCの関係者約20人と一緒に午餐を頂戴した。真に光栄に思っている。

私はこれまでABCCと直接の関係はなかったが、ABCCが1975年4月1日に改組され、名称も「放射線影響研究所(RERF)」と改称されたとき、当時の山下理事長から「非常勤理事」に任命され、1983年6月まで8年間理事会などに出席し、退任の際には造幣局製の見事な飾り額(電鋳板)をいただいた。この間の長崎支所長は河本定久博士と藤倉敏夫博士であったが、その後私は重松理事長から2年間「長崎支所担当顧問」を委嘱され、それが終わると名誉顧問となって今日に至っている。

なお、ABCCで忘れられない人にDr. Warner Wellsがいる。彼は広島のABCCに属する外科医だったが、原爆ケロイドの研究のためにしばしば長崎に来て、我々外科医を集めてアメリカ外科の話をしたり、外科の病気について盛んに討論を行ったりした。私のアメリカ旅行の際はNorth Carolinaの大学にいて、大変お世話になった。感謝に堪えない。

20年間継続を目標に1948年に創設されたABCCは、1975年にRERFと改称改組されたが、ABCCとほぼ同じ内容で、40周年を迎えた今日まで継続している。恐らくこの研究機関は、原子核兵器の存続する限り永続すると考えられる一方、私は世界平和のために、一日も速やかに核兵器が廃絶することを祈念してやまない。


この記事は放影研ニューズレター14(40周年記念特集号):19-20、1988の再掲です。

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