思い出

新田 富雄 (総務部人事課、1947-1977年)

私がABCCの業務に従事したのは昭和22年6月頃呉市役所に奉職している頃からで、当時の呉市は至るところに駐留米軍が街に溢れ、車はほとんど軍用車ばかりでした。ある日のこと、制服を着用した米海軍中尉が呉市長を訪れ、ABCCの業務に対して協力方を依頼してきました。その目的は被爆者と非被爆者の健康調査にありました。しかし、呉市長名儀によって呉市民に対してABCCへの協力を求めることは、当時の市民感情から推測して非常に困難が予想されるので、呉市としては躊躇せざるを得ませんでした。しかし側面的に協力しようと提案したところ、海軍中尉も喜び、その後、体力係であった私は、必然的にABCCの仕事を担当させられることになりましたが、それも束の間、たまたま元職業軍人である私は公職を追われる身となりました。ところが当時の情勢からして好んで煩わしいABCCの業務を私の後に引継いでくれる職員は誰一人おりませんでした。せっかく軌道に乗り始めたABCCの計画も屯挫の止むなきに至りました。苦慮を重ねたABCCは当時の中国軍政部長の諒解を得て特別に私をABCCに採用することになり、よって私は昭和22年9月名実共にABCC業務に専念することになりました。

入所当時のABCC職員は、スネール海軍中尉ほか日本人医師1、看護婦2、技術員2名と私の計7名で業務は主として血液学的検査ならびに資料収集でした。今日は被爆者(広島)明日は非被爆者(呉)と隔日にところを替え1台のジープで目的を果すには大変多忙な毎日でした。研究室は日赤広島支部病院ならびに呉共済病院の一区画を借用していました。両市共電車もバスもなく、幾度か広島駅から日赤病院まで徒歩通勤したものです。

当初はABCCの業務を理解してもらうために大変苦労しました。各学校長、養護教員、各会社責任者、ならびに各種団体を日参して懇切丁寧に説明し協力を仰いだことを記憶しています。時には患者さんに2時間も3時間も原爆当時の模様を聞かされ帰るに帰られず、そのうえ健康診断には来所してもらえず今もって患者連絡の苦労が身にしみています。当時は軍の威光で患者連絡も容易であったように思われる方もあるようですが必ずしもそうでなく、極力健康調査の意義を力説し理解納得してもらうことに努力したものです。又診断結果は詳細に口頭で説明し、大変感謝されたことも記憶しています。

昭和23年に至りABCC職員の数も漸増され、同年3月に現在の予研が発足しましたが主として初期の遺伝学調査が開始されたと記憶しています。ある時期に数カ月間外国人は帰国し日本人職員のみで業務を運営したことがあります。そうした時、ある勇敢?な二世運転手に、神社の石段をジープで昇降させられたり、推定80キロのスピードを出されたりしたこともあります。もっとも当時はほとんど他に自動車の影はなく追突の心配はありませんでした。また当時はすべての物資が配給制で、ある時海田市の労管事務所よりお酒の配給があり、呉街道を自動車が千鳥足となり閉口したこともありました。そこで始めて服務規則の必要性を感じこれを作りましたところ、その規則を巡り紛糾し、結局その余波は八六会と言う親睦会を結成することに落着しました。

昭和23年8月から人事ならびに給与関係は渉外労務管理事務所から離れABCCが独自の体系で運営することになりました。そして外人職員も増員され、日本人職員も100名近くとなり、宇品町にある旧凱旋館を借り受けABCC業務は本格化してまいりました。

その頃から長崎ABCC(医大内)も開設され、また呉市にも独立した研究所が設立されABCCの機構も日進月歩拡充を続け、昭和25年10月宇品から比治山に研究所が移されました。呉研究所は昭和28年発展的に閉鎖されましたが、今もってその面影が目のあたりに残っております。


この記事はABCCニューズレター1(2):5、1963の再掲です。

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