Darling日米両国による共同調査機関を予見

槇 弘 (ABCC準所長・予研広島支所長、1948-75年)

1990年、放影研設立 15周年の際の槇博士

George B Darlingは1957年にABCC所長に任命されました。来日して間もなく、夫妻は中泉正徳前東京大学医学部長のご好意により、札幌で開かれた日本放射線学会の総会に招待されました。この時Darling博士が日本の大学および研究所の多くの傑出した放射線専門の学者に会ったことが、その後色々な形でABCCの役に立ったと思います。この旅行は一週間という短い期間でしたが、夫妻が、日本人と日本を深く味わい知るまたとない機会になりました。

地域社会との関係を強化

ABCCの初期の所長はみなABCCに対する地元の感情を大変気遣っていましたが、特にDarling博士は、被爆者および非被爆者の区別なく調査対象の方々の気持ちを大切にしていました。博士は対象者の方々の理解と協力を感謝し、常にその方々の福利と健康を心に留めていました。また、日本人の習慣と感情を深く理解しておられたと思います。このことは、博士が霊安室の厳粛さを尊ばれたことからも察することができます。また追悼法要を営み、高齢の方々へは自宅を訪ね長寿を祝われました。

博士は、広島と長崎の役所、大学、研究所、そして公立病院に、ABCCと予研の共同研究への協力を繰り返し求め、提案を喜んで受入れました。博士は日本人社会から誰よりも多く受け入れられましたが、これは偏に博士の努力の成果であると思います。 博士の予研-ABCCプログラムへの情熱が、夫妻を約15年間にわたり日本へ留めたのではないだろうかと思います。

Darling博士が長く在職されたお陰で、日米関係が継続され、また改善されたということに疑いありません。博士夫妻は、日本の文化に興味をもたれ、国内を広く旅しています。博士は俳句を楽しまれ、夫人の方は茶道と陶芸に深い興味を持たれていました。

日本における試料の保存を奨励

ABCCの病理標本を、初期の時代に収集したものも含めて、ワシントンの米軍病理研究所から、広島大学の医療資料標本センターと長崎大学へ移管するために、博士は大変な努力を傾注され、心から敬服するものです。
また、広島大学と長崎大学に付属病院を設立する資金を米国政府から調達することにも大いに努力を傾注されました。

1967-1968年の年報の緒言で、Darling博士は、ABCC設立20周年を機に日本および米国政府がABCCを公式に見直すべきであると書き、また適当な米国政府当局が、ABCCにおける研究の優先性、管理機構、職員の確保と配置、および運営資金について日本政府の意向を聴くことを期待すると述べています。また、博士は科学的に有望な研究調査を今後更に20年間継続することを保証する新しい協力に向けた同意書を提唱したひとりでもありました。博士は、ABCCが日本の法律のもとで法人として再編成され、専門的指導、職員派遣や財政的支援に対する責任分担の再配分を計るべきであると提言しています。その後、博士の構想は1975年の放射線影響研究所の設立の基盤となったわけです。

1972年にDarling博士は勇退し米国へ帰国しました。後任はLeRoy R Allen博士でした。

放射線影響研究所設立5年前の1970年6月、Darling博士(左)と筆者

ABCC所長としてのDarling博士の功績は、博士の長期にわたる在任中に受けたいくつかの栄誉により見ることができます。

  • 1968年11月:Darling夫妻、東京の赤坂御苑で開かれた天皇、皇后両陛下主催の秋の園遊会に招待。
  • 1967年11月:日本医師会設立20周年を記念し、医学の分野における国際交流促進への多大な貢献を認められ、Darling博士、日本医師会最高優功賞を受賞。
  • 1967年11月:顕著なる功労が認められ、Darling博士、日本赤十字社金色有功賞を受賞。
  • 1965年12月:在任中の医業および地域社会への貢献を認められ、Darling博士、広島医学会より表彰状を受領。
  • 1961年11月:原爆被爆者福祉センターへX線装置設備資金として多額の寄付をしたことにより、浜井市長はABCCに感謝状を贈呈。
  • 1961年10月:広大新病棟落成後、Darling博士、森戸辰男広島大学長からABCCの尽力に対し感謝状を受領。

この記事はRERF Update 3(3):7, 1991の翻訳です。

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