MillerのABCC-放影研の想い出、1953~1990年 第3部

MillerのABCC-放影研の想い出、1953~1990年:第3部

メリーランド州ベセスダ 米国癌研究所 臨床疫学部門 Robert W Miller

ABCC-放影研に長く勤務した同僚の逸話

児童健康調査、1957~61年

Jim Neelは大規模実地調査の大変有能なまとめ役であった。事前の計画立案により私たちは「計画を始動させる」心の準備ができたものだった。日本人の若手大学研究員が3人加わり、日本で承認を得るために必要な人間関係を作る手助けをしてくれた。 Jimは、厚生省職員をはじめ、学界指導者や市町村の役人から教師や親にいたるまで、私たちの計画を知っておく必要があるすべての人に必ず連絡が行くように計らった。私たちは文献を調べ、使用する技法や検査を開発し、Ann Arborを訪れた主立った日本人遺伝学者と会い、こうしてそれまで予想していなかった障害を回避した。学校に戻ることは予想通りいやなものであったが、私の研究活動をNeelの遺伝学部の研究活動に合わせていくことで、その苦痛も緩和、少なくとも正当化、することができた。

児童健康調査の前日のカルテの早朝検討、1958年 左から:Jim Neel、歯科医Jerry D Niswanderと朱雀直道

私たちは計画を始動させた。日本人小児科医、看護婦、精神測定試験官と患者との連絡係などの優秀なスタッフを直ちに集めた。少なくとも彼らの1人、大竹正徳は現在も放影研におり、生物統計学者としてのキャリアを築いた。2週間も経たないうちに私たちは診療室で1日40人の患者を診察していた。広島での仕事を予定通り終え、その後すぐ長崎で本格的に診察を始めた。

私の研究計画は、1955年に広島の子供たちの4人に1人がかかっていた10%好酸球増加症を引き起こしていたある種の寄生虫感染症に関するものだった。1958年に帰国した時、日本は農業のやり方を変えており、その医学的問題はなくなっていた。それで私は研究テーマを視覚障害に変えた。私は、視力は目の構成部分が完全な構造をしているかどうかに影響を受け、血族結婚による欠陥は視力検査によって検出できると思った。この推測は正しいことが分かったが、全体的に、劣性形質を持っていることがわかっている家族を除き、血族結婚の影響は生物学的に有意ではなく、調査した大規模な集団でもまれであった。

症例の中には非常に興味深いものもあった。わずか8歳の背の高い少女は、診察を待つ間、本に目を押し付けるようにしていた。マルファン症候群であった。その少女の家族9名もそうであり、彼らは長崎の中で最も身長の高い部類の人たちであった。別の子供では、右胸の方を聴診するまで心拍音が聞こえなかった。その子の妹が診察台の端から私たちを見つめていた。妹の胸も聴診し、彼女も心臓逆位であることがわかった。これら2組の家族は両方共、日本の文献で報告された。診察を受けた家族には、診療所に来た4日後、所見の書かれた手紙が送られた。

成熟度の尺度として手のレントゲン写真を調べていた時、小指の中ほどに形成異常の骨があることがよく目についた。その正式名は小指中短節症であるが、レントゲン写真を見て私たちは「芸者指」と呼んでいた(写真参照)。私たちの正式な調査で、この症例は米国では男女共3%であるのに比べ、日本では男の子の10%、女の子の17%に見られることがわかった。

1959~60年の身体測定

左:日本人の子供に異常に多かった小指の骨の形成異常。、レントゲン写真の影から「芸者指」と通称がつけられた。
右:1959~60年、長崎研究所児童健康調査にあたる小児科医。左から:田中博美、飯尾寛治、錬石昇太郎、血液学者・遺伝学者の藤木典生、三宅宗隆、梁井昇。

私の博士論文はミシガン大学での2年目の終わりに受理された。その頃、Jim Neelはカルテを調べていた時、その記録が非常に詳細であり、虫垂切除の跡は感染症になりやすいことの目安として使えることを知った。血族結婚と非血族結婚との間に違いはなかった。 錬石昇太郎のほかに私たちと一緒に仕事をした日本人小児科医4人のうち、2人はニューヨーク州バッファロー子供病院で、1人はバルチモアのJohns Hopkins大学で研究奨励金を受けた。九州大学から来ていた1人の小児科医は、他に5人の後輩たちがバッファローへ来ることができるよう道を開いたことを最近知った。そのうち1人は現在九州大学小児科の主任教授であり、もう1人は佐賀県にある学校の学部長である。その間Jim Neelは、私たちと一緒に働いた若手の医学遺伝学者から成る中核的グループを通じて、日本に人類遺伝学を確立する手助けをした。

米国癌研究所、1961年~現在

疫学における私の本来の居場所は先天性欠損の研究であり、その研究をする最高の機会は米国癌研究所(NCI)にあることがわかった。小児科学、放射線影響や疫学など、私がそれまで得た情報すべてをできるだけ最も臨床的に使おうと努めた。がん病因学についての知識がなかったことは利点であったかもしれない。先入観がなかったからだ。小児がん病因学についてほとんど注意が向けられたことがなく、私たちは死亡率の記述式研究(特に年齢別と人種別の)や特定のがんと特定の先天性欠損との間に関連があることを発見して、急速な進歩を遂げた。私たちが叙述し調査した症候群はその後、腎臓のウィルムス腫瘍、目の先天性虹彩欠如、1型・2型神経線維腫症、三側性網膜芽細胞腫(両目と松果腺が影響を受けている) 、リ・フラウメニがん症候群、などにおけるがん抑制遺伝子の発見につながった。これらの珍しい疾病の研究により、とりわけ乳がん、結腸がん、骨腫瘍、肺がんなど、よく見られるがんの多くがどのようにして発生するか理解されるようになった。これらの所見で、「公衆衛生にとって全く意義がないので、まれにしかないがんの研究をするな。治療できないので遺伝は研究するな。」という、25年前私たちが言われた忠告が間違いであることが示された。

1964年にメリーランド州ベセスダで開かれたパーティーで、ある系図学者に会い、京都大学の奇形学者であり解剖学教授の西村秀雄と私が共通の分野に興味を持っているだろうと言われた。その後間もなく西村教授がワシントンに来た際、私たちは会い、東京で奇形学と小児がんについてのワークショップを開催することを思い付いた。全米科学財団は基礎研究にしか資金を出していなかったが、 アメリカ人5名の旅費援助の申請を認めてくれ、ABCCの他の人たち(George Darling、Iwao Moriyama、William J Schull、KennethとMarie-Louise Johnson夫妻)からの申請も認めた。日本側の資金は日本学術振興会(JSPS)から拠出された。その会議は画期的なものとなった。というのは、その会議では、東京の地域小児がん登録を他の五つの都市に広げていくことが奨励され、がんについての長期にわたって続いた日米共同のワークショップの方式が決まり、両国の奇形学者たちを引き合わせ、それで指導的立場の科学者たちの交流が始まり、日本人若手研究者が米国で研修を受けるようになり、ヒト胎芽の正常・異常な発育の研究が盛んになったのである。3年後、西村教授は京都で奇形学における研究手法に関する全アジア・ワークショップを開催した。このワークショップから優れた会議録が生まれ、奇形学の分野で日本は国際的に認められるようになった。西村教授は数年前、日本学士院に選出された。

1965年東京で開催された、奇形学・小児がんに関する日米共同ワークショップの出席者には、著者(前列左から6人目)と共同主催者西村秀雄(前列右から2人目)がいる。またABCC所長George Darling(前列右より4人目)、現在の放影研専門評議員松永英(2列目右から3人目)、当時放影研職員KennethおよびMarie-Louise Johnson夫妻(後列それぞれ左から4人目と5人目)、元放影研常務理事William J Schull(後列左より3人目)の顔も見られる。

この頃広島に行った時、私はABCCの非常勤研究員でもあった広島大学の宮西通博医師に会い、彼が医学研修生として、30歳の患者に「そんなに若いのに、なぜ肺がんになったんですか」という、無邪気な質問をしたところ、その患者は、「10年前、第二次世界大戦中、大久野島のイペリット製造工場で働いたからだろう」と答えた、という話しを聞いた。宮西と彼の教授和田直(後にABCCの上級顧問となった)はその島に行き、呼吸器がんになった元イペリット工場労働者18人を見つけた。その調査は調査集団を用いたものではなく、国際的な学術雑誌に発表されていなかった。

1967年、宮西通博が日本の旧式な解剖授業用人体模型の横でポーズを取る。医学研修生の時、彼が一人の患者にした質問により、戦時中のイペリット製造工場労働者の呼吸器がん罹患率が高いことが発見された。

私たちはそこで生産された数種類の毒ガスを浴びた人たちをできる限り完全に突き止め、元工場労働者におけるがん罹患頻度を決定するため、小規模ではあるが2年間の契約を提供した。私たちは1968年に結果をLancet誌に発表した。呼吸器がんによる期待死亡数0.9に対し、実際の死亡数は33であった。それ以降、症例数は75以上に増加している。

1971年に円ドル為替レートが急激にドル安になり、ABCCは日本での経費を支払うことが困難になるという財政的危機に直面した。当時、NCIには年度末剰余資金があったので、ABCCで新しい仕事を遂行するということで契約をし、以後3年間予算の不足を補うことができた。その目的の1つは、公衆衛生学の若手日本人研究員のために、疫学の奨学研究生プログラムを作ることであった。夏期疫学講座に参加するため米国に来て、4~6週間滞在してNCIやその他の疫学研究所を訪れ、その年の残りの期間は広島ABCCの疫学・生物統計学部に来て研究するというものであった。その当時の研究員には、北九州医科大学の吉村健清、昭和大学の中村健一、産業医学総合研究所の中村国臣、放影研放射線生物学部部長で免疫学の研修を受けた秋山實利がいる。もう一つの新しい試みは、広島・長崎のがんの発生状況を観察するため腫瘍組織登録を設立することであった。広島の医師は関心を持ったが、幾人かの反対者が参加していて登録対象地域が完全なものになるには少し時間がかかった。長崎の医者は気乗りしないらしく、広島の精度の価値が明らかになるまで参画しなかった。

1972年にGeorge Darlingが退職した時、私たちはたまたま広島におり、彼のABCC所長在任15年の祝賀会に出席した。その翌年、彼がNIHのFogarty研究員だった時、私はミシガン大学公衆衛生学部長のRichard Remingtonに、Dr Darlingのために国際公衆衛生に関する特別講座を設けることを考慮するよう提案したが実現せず、その代わりDr Darlingは名誉学位を授与された。 1975年2月、私はCrow委員会のメンバーだった。この委員会は、ABCCが放影研になる直前に、ABCCの研究業績と研究の潜在能力を評価した。包括的な報告書(JF Crowら、ABCC業績報告書21-75)が作成されたが、その20年前に作成されたFrancis委員会の報告書ほどの影響力を持つことは到底できなかった(RERF Update 6[1]:9-10, 1994年、Millerの回顧録第2部を参照)。この訪日での最も記憶に残る出来事は、ある冬の寒い夜、私が広島に別れを告げた時であった。私の結婚20周年の日、駅のプラットフォームに独りたたずみ、雪がひらひらと舞い降りるのを見ていた。その時、後ろから静かな声で私に呼びかける者がいた。Celina Rappaportだった。彼女は、病気だった彼女の父(当時ABCC-放影研総務部長Mick Rappaport)の代わりに見送りに来てくれたのだった。

追記

1974年にNCIは日本学術振興会(JSPS)と契約を結び、日米共同がん研究プログラムを設立した。このプログラムは、数多くのワークショップを通じて中堅科学者、薬物などの資材、アイディアを短期で交換するものだった。1979年以来プログラムは、「病因学と発がん」、「生物学と診断」、「治療」、そして「複数の研究分野合同の研究」、の4分野を扱ってきた。東京の癌研究所所長であった菅野春夫と私が複数の研究分野合同の研究の主催者であった。私たちは両国のがん発生における違いをテーマとしたワークショップを年2回開催した。リンパ腫やその他のリンパ球系疾患に関するワークショップは3回あった。このテーマは、日本人は米国の白人よりもB細胞リンパ腫罹患率は低いが自己免疫疾患罹患率は高いので、興味深いものだった。日本人をB細胞リンパ腫から守っているものが自己免疫疾患に罹りやすくさせているようだ。広島大学の難波絋二は腫瘍組織登録を活用して、日本のリンパ腫罹患率が米国と大きく違うことを示した。

生物統計学に関するワークショップを4回開催したが、これは特に放影研にとって有益であった。うち3回は広島で開催された。広島が日本の生物統計学の中心であるからだ。他所に生物統計研究員の職はほとんどなかった。我々の目的はこの分野への興味を高めることだった。David Hoelが一度これらのワークショップに出席し、それがきっかけで彼は放影研の理事として2期務め、ノースカロライナ州Research Triangle公園の国立環境衛生科学研究所に日本から幾人かの研究奨学生を受け入れることとなった。九州大学の柳川尭は米国とオーストラリアで広範囲にわたる研修を受けてきたが、ワークショップの日本人側リーダーとして頭角を表してきた。私はこの一連のワークショップの第1回目を、彼の師である工藤昭夫と共同で主催したが、工藤氏はプログラムの途中で私に、「Dr Miller、日本では数学は2千年の歴史があるのに医学はたった200年の歴史しかないことを理解頂きたい。この2つを急いで結び付けることはできませんよ。」と言った。

1981年、ABCC-放影研の様々な委員会の委員を務めた後、専門評議員に任命され、そのおかげで9年間、毎年日本に戻ることができ、進展に遅れずついて行き、新しい研究について提案し、評議員会に30年以上も溯って研究所についての記憶を伝えることができた。私のみならずABCC-放影研に勤務した他の人たちは十分に報いられた。そこでの実地経験によって日米の放射線専門家、疫学研究者、生物統計学者、人類遺伝学者の一群が育成されたのである。


Robert W Millerの回想録第1部RERF Update 5(4):7-9, 1993に、第2部は6(1):9-10, 1994に、第3部は6(2):8-10, 1994に、第4部は9(2):12-14, 1998に掲載されました。この記事はそれを翻訳したものです。Dr.Millerは1994年4月27日に米国癌研究所の名誉研究員になりました。

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