宇品時代のABCC、1948年から1949年にかけて

森山 功 (事務局、1948-1984年)

森山 功 氏

当初、この調査研究は10年ぐらいは続くだろうといわれていましたが、世界的に認められて今日に至り、40周年を迎えたことを心よりお喜び申しあげます。

40年を懐古し、真っ先に思い出すのは当時わずか数人のスタッフで、しかも占領軍の統治下にあり、経験者もいない状態です。手本も何もない「人体を対象にした調査研究」のスケジュールに取り組み、自らも患者連絡業務を率先指導の任に当たった事務面の総責任者であった新田富雄氏(昭和52年6月定年退職)のご努力に敬意を表したいと思います。

ABCCに籍を置き、青年期・壮年期・熟年期を経て定年を迎え、老年期に達した今では、諸々の苦労、悲しみ、楽しかったことが走馬灯のごとく去来してまいります。思い出として何から書いてよいか順序よくは表現出来ませんので、平和で豊かな時代に育った方々にはご理解いただけるかどうかわかりませんが、従事した職務の関連から1948-1949年当時の模様を主に述べさせていただきます。

1947年11月に呉共済病院内のABCCでDr.スネルに面接を受け(通訳は石橋先生)、翌1948年1月5日、安芸郡海田町にあった駐留軍労務管理事務所の手続きを経て、3名(藤本君枝・山本 昇・森山 功)が連絡員として採用決定され、山本・森山は14日から実務に就きました。一番初めに覚えた英語は、自分たちがコンタクターで訪問するところはペーションでした。暖房設備は電気ストーブがただ一つの広島日赤の室で、新田さんからABCCの目的、仕事の内容、指定された患者さんへの依頼、お迎え方法等を教わり、翌日から実地に広島市内在住の被爆者宅を訪問する仕事を4名の連絡員が1台のジープを利用して巡回していましたが、実際に訪問しても、爆弾を落としたアメリカの研究ということで、治療もしてくれないのにただ血を採るだけでまるでモルモットだと言って、延々と被爆時の話を聞かされ、その結果は、迎えの当日故意とも思える不在、あるいは拒否ということも毎日味わいました。

こうした業務は広島では月・水(半日)・金曜と行い、火・木・土(半日)曜は呉市内で広島の対象者と同年齢の方のリストにより呉市内の学校や役所・事業所を訪問しましたが、幾ら説明しても拒否率は広島を上回るものでした。どうしても員数がそろわない場合には、職員自らが対象者となったものです。

広島・呉間の移動は一台のスリークォータートラックで、呉・広島街道を進駐軍並みにとばし、時には汽車と競争するドライバーを「かっこいい」と思ったものです。同年3月ごろ、週2回の半日勤務を廃し、土・日曜休みの週休2日制に改正され、これが現在まで続いています。

丁度そのころから研究対象量の増加、設備・人員等の漸増に伴い、新しい研究施設として、現在袋町にある日本銀行の南隣にあった浅野図書館の跡に移るという話も出ていましたが、色々検討された結果、宇品の旧凱旋館に決定したようでした。そのころには予研(JNIH)の方でもABCCの研究に参加する準備が進捗したようでした。それが現実となったのは同年3月31日のことで、女子従業員の一部が厚生省へ身分転換されました。私たちは国の予算の都合とかで実現しませんでした。

同年4月に入り、米国からも事務系の総責任者として岩下 一氏が着任され、ABCCの運営も独自の構想ができたようで、人事労務管理面も駐留軍労務管理事務所を離れました。私も連絡員の業務から離れ、人事労務管理事務確立のため新田さんのお仕事の手伝いとして県庁・市役所・税務署・労働基準監督署等、関係ある役所の手続きに回りました。当時は統制配給制度全盛期であり、ABCCでも労務系従業員には特別配給があり、米麦その他の食品の配給で一日を費やしたこともあります。ある日には小麦粉の配給で粉を量り分配するため、粉塗れになり苦労したこともあります。しかし一方では、毎日のように人が採用され充実してゆく様子にちまたでは日の出のような勢いと評されました。

広島の研究所は凱旋館の隣に新館やモータープール、修理工場、動物室が新設され、また市内には数か所の出張所も置かれました。呉にも研究所を新築し、外人職員には呉市内に数か所の借り上げ宿舎もできました。同年8月に至りいよいよABCCの運営全般が独自で行われることになり、研究内容も驚異的であったと思いますが、担当する人事労務管理面も米国型を主軸としてユニークなものであったと思います。

簡易ながら就業規程もでき、勤務時間は8:30-16:30、休憩は12:00-12:45、祝祭日は米国方式で、日本の祝祭日はほとんど無視され、年末年始も31日と1日のみでした。有給休暇は月2日でしたが、行使しないときは賃金の一部となっていたため、その方向にする従業員も多かったと思います。また、変わったところでは、職場での昼食が一切禁じられ、日本人食堂、外人食堂というように区別がありました。日本人が区別された理由の中で一説には日本人は弁当にたくあんを入れるので、その臭いが特に指摘されたとも聞いています。

日本の一般とは異なり、採用が決定すれば即明日から就労ということになり、何かの不都合があれば一か月分の予告手当を付し即解雇という非情的と思える面があり、一般では考えがたいものとして身分不安定なことが囁かれていました。待遇面ではかなりのレベルで、完全職務給制を採用し、学歴、経験は無視されましたが、免許資格職は優遇されていたと思います。基本給のみで諸手当はもちろんボーナスもありませんでした。給料は日給月給制で実働日を日割り計算し、月末締め切りで翌月10日支給となりましたが、支払いの方式が日本の習慣では印鑑があれば代理も可能でしたが、ABCCは必ず本人であることを確認した上で給料袋を渡し、その場で現金の確認をした上でペイヴォチャーに英語で署名する方法でした。自分の氏名をローマ字で書くことを数日間練習したというエピソードもありました。当時としては皆さんがたは大変だったと思います。たまたま給料日に病気で休んだときは代理人は一切認められず、後日給与支払い係が自宅へ直接出向いて支払っていました。

すべての機器が米国から導入され、日本の事務用品ではソロバンがあり、これで計算したものは信用が薄く、電気計算器でテープに数字が表示されたものと一致してからやっと認められるという今から見ればナンセンスな時代でした。現在ではコンピュータ万能の時代ですが、当時のABCCにはコンピュータという職種の従業員が数名おられたのですからもって知るべしでしょう。

広島の充実に並行して長崎でも研究所設立が進められ、当初は興善町小学校に仮校舎のあった長崎大学医学部の一部を借用して、ABCCの従業員は10数名であったと思います。人事労務管理の指導は広島から岩下氏が出張しておられました。私も給料の計算・支払い時には随行していましたが、当初は広島の給料支払日は月末締め切りで翌月10日支払いとなっていました。長崎は16日から翌月15日までを締め切りとして計算し、支払う方法を採用しており、同年12月まではこの方法で出張していました。1949年1月から広島と同じように改められました。こんなある日、長崎で給料を午前中に受け取り昼食のため友人とジープで市内に出る途中、袋詰めのまま紛失してしまったため大変なことになったことがあります。幸か不幸かその女性は裕福な家庭のお嬢さんだったため何とか解決できました。

1948年12月25日には初めてクリスマスパーティが開かれましたが、折角外人職員の拠出による好意のプレゼントも、当時の貧しい日本人の品性劣り、恥ずかしい思いをしたことは忘れられません。チョコレート・ラッキーストライク・米国製のケーキなどの味は、砂糖やタバコの配給時代を過ごした者でなくては語れないかもしれません。また、悲しい出来事としては、1949年3月頃ABCCの近くにあった予研職員の宿舎が火災に遭い全焼し、大変気の毒なこともありました。

日ごとに充実してゆくABCCも、日本的な社会保障の面では一歩遅れていたと思います。1949年春ごろからその必要性を認められ、アンケート方式で従業員の意思を集約し、健康保険や失業保険に任意加入も実現しました。家族手当、通勤手当やボーナス等も難産ながら採用され、少しずつ日本的な型に近付きました。しかし厚生年金については意志統一できず、1952年9月に実現したのですが、今から考えると残念に思います。

また従業員の増加に伴い、お互いの親睦を図るため余暇を利用し軟式野球大会や運動会を開催し、仮装大会等も行い、楽しい一日を過ごしたことが忘れられません。このころ比治山の山頂にはカマボコ型の建物が竹中工務店のもとで建設中で、その進行具合をそれぞれの立場で、期待に胸をふくらませたものです。

1950年12月24日、比治山A館2階の労務管理事務室でのクリスマスパーティ

以上、旧宇品研究所当時の記憶の一部を記しましたが、放影研のますますの発展を祈念し、終わりと致します。


この記事は放影研ニューズレター14(40周年記念特集号):48-49、1988の再掲です。

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