MillerのABCC-放影研の想い出、1953~1990年 第1部

MillerのABCC-放影研の想い出、1953~1990年:第1部

メリーランド州ベセスダ 米国癌研究所 臨床疫学部門 Robert W Miller

放射線影響研究所とその前身の原爆傷害調査委員会の活動に長い間かかわってきた著者が、30年以上にわたる学術的・個人的な逸話を織り交ぜて書きます。

Why と How

1954年、ABCC小児科調査対象者の診察をする著者。

1953年11月20日、私は小児科学、放射線生物学、そして軍用列車と乗り継いで、広島に到着した。その3年前、小児科学の研修を終えた時、これで終わったという感じが私にはしなかった。専門分野の研修は範囲が狭すぎると思った。そこで、ほとんど申し込む者のない放射線生物学の特別研究奨学金の奨学生となった。
放射線生物学は新入りの幅広い分野で、内科医を育てるため米国原子力委員会(AEC)がそのスポンサーとなっていた。Duke大学の教室での学習、さらにWestern Reserve大学での実験研究のためそれぞれ5カ月過ごしたところで朝鮮戦争が始まった。私は召集され、奨学生であったため、2年間Rochester大学での原子力プロジェクトに配属された。X線の致死性の研究のため96匹の犬を毎日採血した後、小児科病棟の回診に加わることで、私の先行きに希望の灯をともしていた。そして小さい子供たちのX線撮影が指示されると、子供たちはその度に、放射線部の規定通りX線透視検査(高線量) を受けることになっていることを知った。放射線部長と部員を相手に非友好的な議論をした。その結果、方針が変更され、私は医用放射線が子供に与えるかもしれない害に関する文献を調べることになった。こうして、現在では有名となったLouis Hempelmannの胸腺肥大の放射線治療を受けた幼児について研究が始められることとなった。

Rochester大学のJohn Morton外科教授が6カ月間原爆傷害調査委員会(ABCC)の臨時所長になることを聞いたとき、私もそこに短期間勤務すれば、すでに学んだことに臨床的経験を加えることができるだろうと思った。ABCCの交代間近のGrant Taylor所長の面接を受け、1年間の契約に同意した。その後間もなくして、私はMoanaホテルの向かいのジャングル(現在は国際市場となっている)にあるMoanaホテル別館の1晩4ドルの小屋に1泊し、それから、パンナム寝台飛行機DC-6(段ベッドは現在では頭上の荷物棚として知られている)でWake島から東京へと向かった。 そして、素晴らしい東京の帝国ホテル(Frank Lloyd Wrightによる設計で、何年も前に取り壊された)に1泊し、そこから米国軍用列車で広島へ向かった。

初期の小児科調査

当時の日本にいるということは、7歳に戻ってたくさんのことを初めて見るといった感じであった。魅惑的で、仕事は大変面白かった。日本の童謡が待合室のテープレコーダーから流れる中、診察室で毎日約20人ほどの子供たちを診察した。患者は9~19歳であった。いつも学ぶこと、教えること、楽しいことがたくさんあった。 人々の活気と子供たちの魅力で満ち溢れていたその診察室があった場所には、現在放影研の研究情報センターがある。我々の6人の若い看護婦は、愛すべき軍曹の性格をもつ元助産婦の平山八重子が監督していた。ABCCの看護婦長は、上田ワカヨであり、Duke大学から来ていた二人のアメリカ人看護婦と仕事をしていた。診察室でこれ以上の看護サービスが提供されたところはなかったろう。

左:1954年、看護婦職員とポーズを取るABCC統計研究員Marvin Kastenbaum. 右:平山八重子。元助産婦であり、ABCC初期の小児科の忙しい業務の中で、 彼女の看護婦たちの監督は非常に貴重であった。

私が後任となる予定の小児科部長のWataru W Sutow(Wat)は、胎内で被爆した子供の発育について解析を終えようとしていた。 Duke大学から来ていたMargaret (Pat) Sullivanが部内のもう1人の米国人小児科医であった。Patは素晴らしい臨床医で、子供たちやその母親から慕われる特殊な才能を持っていた。PatとWatはその後ヒューストンのMD Andersonがん病院で小児がんの化学療法の先駆者とった。小児科には人類学者のEarl Reynoldsもおり、データ収集を終えようとしていた。診察室には8人の日本人小児科医と精神測定医がいた。皆若かったので、ABCCは大学のキャンパスのような雰囲気であった。

1949年8月、小児科の職員に講義をするWataru Sutow(小児科、1948 – 1953年)

当時ABCCの臨床調査は、他所と同様、厳密な科学的設計に基づくというより直感に基づいたものであった。慢性疾患疫学はまだ、その有名な前身の伝染病疫学から抜け出していなかった。しかし、ABCCの遺伝プログラムは数学的基盤を持っており例外であった。放射線線量の代わりに、爆心地からの距離を用いた。これらの数字は、距離がカルテに記録されていたら恐らく生じていたであろう偏りを避けるため、生物統計学部で保存されていた。私の計画は在職期間の終わりに所見をまとめて発表することであった。 最も注目に値する観察は、妊娠初期に放射線治療を受けた母親に生まれた子供における小頭症と重度精神遅滞であった。これはフィラデルフィアのMurphyとGoldsteinによる研究で既に知られていた。 Murphyは私の出身医大の教授であり、そこでこれらの所見をよく聞かせてくれていたものだ。この話の発展をその後47年間この目で見ることとなるとは驚きである。

広島の被爆者に見られたこの状態を最初に発表したのはGeorge Plummerであった–放射線胎内被ばくの後、重度精神遅滞となった子供が7人いるという(ABCC業績報告書29-C-59)。米国のテレビ局の職員が取材に来るまでは、それ以上なすべきことは何もないように思えた。ところが、取材での質問で、7症例の分母となるべき集団の員数がないことに気づいた。データを検討してみて、症例数が15に増加し、さらに精神遅滞を伴わない小頭症を18症例見つけた。後で、比較的軽度の同様の症例は、重度精神遅滞の6倍の頻度で発生したことがわかった。

他に注目に値する発見としては、爆心地から1530m以内で被爆した19歳以下の被爆者18人に1955年以前に白血病が発生したこと、爆心地から1800m以上離れたところで被爆した6~9歳の子供のうち視覚障害を起こしたのが9%であるのに対し、爆心地から1800m以内で被爆した同年齢の子供の20%が視覚障害(近視のため?)を起こしたことなどがある。6歳未満の子供にはそういう違いは見られなかったので、その子供たちが年長の集団と同じ年齢に達したとき同じような違いが起きるものだろうかと疑問に思った。爆風や火傷による影響がいつまでも残っていた子供たちが26人いた。最もよく見られる後影響は、時として人を無能にするような、後影響が出るのではないかという恐れであると我々は感じた。

結果を書くときに、子供ひとりひとりの爆心地からの距離を情報として得ようとしたが、生物統計学部は、データは生物統計学部のみのものであるという理由で見せてくれなかった。この障害は夜ごと生物統計学部へ行き、そこのファイルを見て乗り越えたのであった。

米国のスーパースターABCCを来訪、研究員海に乗り出す

仕事に関係しないことで、幾つか注目に値することがあった。1954年2月12日、Dr. Mortonと私がABCCの受付の辺りを歩いていた時、正面玄関からジョー・ディマジオとマリリン・モンローが入ってきた。2人はハネムーン中であり、スタンフォード大学の医学生だった時にニューヨーク・ヤンキーズのプロ野球選手でもあったボビー・ブラウンも一緒であった。3人はABCCの内科医であったブラウンの級友のJack Lewisに会いに来たのであった。一瞬のうちにABCCの全員がそこに殺到し、我々はスーパースターを独占できなくなってしまった。ブラウンはその後アメリカン・リーグの会長となった。

小児科にいた人類学者Earl Reynoldsは、妻と10代の子供2人を伴って帰国するのに、変わった方法を取ることにした。小さい船を作らせ、何度か練習航海をした後、英語を話さない日本人乗組員数人を乗せハワイへ向けて出発するところだった。この辺りを訪れていた米国艦船の士官がその船と乗組員を見て遭難するだろうと予言した。日本を出て47日後、ハワイに到着、Earlは航海の経験談をThe Saturday Evening Post誌に寄稿し、すぐまた出航した。その後彼は、南太平洋の核実験場近くの海域で船舶立入禁止を無視し逮捕された。童話作家であった彼の妻Barbaraはしばしば広島に戻り、平和主義者として尊敬された。

1954年9月 帆船で広島を出航する直前のABCC小児科のEarl Reynolds、その妻Barbaraと子供たち。左は英語を話さない乗組員のうちの二人。

ABCCと第五福竜丸

1954年3月1日、ビキニ環礁で米国の核兵器実験が行われ、マーシャル諸島とその周辺地域に死の灰が降った。約2週間後、日本漁船第五福竜丸が23人の乗組員を乗せ東京(焼津)に到着した。
乗組員は死の灰が激しく降る中、その近くでマグロ漁をしていたのであった。Morton医師がABCC班を引き連れ東京へと赴き、乗組員を診察する許可を得た。新聞はこぞって乗組員と放射能汚染された魚について報じた。このことはまるで日本全体にとって危険であるように思われていた(放影研Update 5[1]:10-13, 1993; 5[2]:8-10, 1993; 5[3]:7-0, 1993参照)。
6月に米国からABCCに、アメリカ大使館で高く評価されているという記者が来た。少なくとも、 ABCC所長代理Frank (Tax) Connellは、新所長Robert H Holmesを出迎えに東京に出かける直前に、そうであると言っていた。1時間程私はその記者に小児科でしていることを話した。記者は立ち上がって帰ろうとしながら仕事とは関係ないような調子で、昨日の雨水に放射線が20,000カウント含まれていると日本の新聞が報道しているが、自分や家族はこのことを心配すべきかどうかを尋ねた。それに対し私は、その20,000カウントを汚染されていない雨水のカウント数と比較すべきだと言った。そして、米国では測定単位はミリリットルなので、1分・1ミリリットル当たり20カウントというであろうことも付け加えた。日本では測定単位はリットルなので、報道された20,000カウントは1分・1リットル当たりのカウント数であった。
翌日、日本人科学者を侮辱したということで、生物統計学部長Lowell Woodburyと私をインタビューしようと、日本人記者がうようよといた。Lowellは、日本人は果物や野菜に含まれる自然放射能を考慮しないと言ったと米国人記者に書かれており、私は日本人は放射線被ばくを1000倍誇張していると言ったと書かれていた。それが着任早々の新所長への私の紹介となった。新所長の最初の仕事はこの厄介な問題を扱うことであった。

蜂谷道彦のヒロシマ日記

幾つかの文化的な出来事が私の日本滞在を彩った。私は到着してすぐ、蜂谷道彦著「ヒロシマ日記」の翻訳の下書きをもらった。その話の迫力は文体に残っていた日本語っぽい英語でますます強められていた。
ノースカロライナ大学からABCC職員として来ていた外科医Warner Wellsが逓信省のあまり知られていない医学雑誌に載っていたその日記について聞き知っていた。蜂谷は広島逓信病院の院長であった。WellsがNeal Tsukifujiの協力を得、ABCCでその日記の翻訳をするよう手配した。翻訳版はノースカロライナでさらに推敲され、日本「らしさ」を失ったが、文学的に洗練された作品となった。1955年に米国で出版されたときには、The New York Timesなど主な書評誌の巻頭で賞賛された。本は10ヶ国以上の言語に翻訳され、国際的にベストセラーになり、今でも増刷中である。

1959年9月、ヒロシマ日記の著者、蜂谷道彦と八重子夫人

蜂谷はほんの少額のお金しか受け取らず、それも原爆孤児の教育資金にした。恐らく冗談であろうが、東京の出版社はその本の出所を知らず、日本語に翻訳したいと言ってきたと言われている。私は下書きを読んでから、蜂谷を深く知るようになり彼の立派な心と文学的才能を賞賛せずにはおれなかった。彼の本が世界中に知れ渡るようになるにつれ、私はその成功がとてもうれしかった。


Robert W Millerの回想録第1部RERF Update 5(4):7-9, 1993に、第2部は6(1):9-10, 1994に、第3部は6(2):8-10, 1994に、第4部は9(2):12-14, 1998に掲載されました。この記事はそれを翻訳したものです。Dr.Millerは1994年4月27日に米国癌研究所の名誉研究員になりました。

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