Darling所長時代 - 変化の15年間

米国がん研究所専門官 Seymour Jablon

1957年、George B. Darling氏はRobert Holmes氏の後任として原爆傷害調査委員会(ABCC)の所長に就任し、1972年の退職まで同職を務めた。歴代の所長の中で最も長い任期を務めたDarling所長は、ABCCの根本的改革を指揮し、その調査プログラムの軌道修正を行った。

Darling 第5代ABCC所長。1957年6月から1972年12月まで、ABCC所長としては最も長く務めた。

1957年以前には、ABCCによる原爆被爆者調査に基づいて行われた重要な発表はほんの一握りにすぎなかった。

広島・長崎における妊娠終結に及ぼす原爆被爆の影響についてJames Neel氏 と William J. Schull氏 が行った調査(1956年)によれば、放射線被ばくは明らかに突然変異を引き起こしたと考えられるが、その数は両市の何万人という新生児を検査しても目立つほど大きいものではなかった。1952年までには、放射線被ばくが白血病の原因であることが明瞭になり(Jarrett Folleyら)、同年に George Plummer氏 は、妊娠中に原爆放射線に被ばくした母親から生まれた子供に認められた小頭症を伴う精神遅滞について最初の報告書を発表した。1949年に早くも、David Cogan氏 が一部の被爆者に認められた放射線に起因する白内障について報告していた。しかし、白血病以外の悪性疾患はまだ報告されておらず、現在分かっているように、George Darling氏 が来日した年にはほとんど発生していなかったし、その後数年間は確認されなかった。

George Darling氏 が日本を去った1972年にABCCは、放射線発がん、放射線の胎児への影響および染色体異常に関する主要な情報源として確立されていた。電離放射線の生物学的影響に関する米国学士院の報告書 (BEIR 1972) に記載されている放射線被ばくに起因する発がんリスクの推定値は、大部分ABCCにより解析・発表されたデータに基づいていた。同様に、国連原子放射線影響科学委員会(UNSCEAR)が1972年に出版した「電離放射線:そのレベルと影響」では、種々のがんに関する記述のすべてが被爆者に関するデータで始められていた。

ABCCの躍進

それはいかにして起こったか。生産性が余りにも低く、できることはやり尽くしたのだから、ABCCは段階的に廃止すべきだと主張する人もいたというのに、そんな機関が、電離放射線の生物学的影響に関する卓越した情報源となったのはなぜであろうか。それは唯ひとりの人物の功績ではなかった。R. Keith Cannan米国学術会議医科学部長およびThomas Francis Jr.ミシガン大学疫学部長による調査計画の立案、組織化および人材確保の各分野における貢献は調査戦略の上で重要であった。しかし、計画立案と組織化のみでは成果は得られない。組織はその職務遂行に重点を置き、計画は実行されねばならない。Darling所長は成すべきことは何かをはっきりと見抜いていた。そして、その仕事に長期間専念する覚悟をして、ABCCを放射線のヒトへの影響に関して最先端の情報を出すところとして現在の地位にまで押し上げたのである。

George Darling氏 はマサチューセッツ工科大学を卒業し、ミシガン大学から公衆衛生の博士号を取得した。ミシガン大学公衆衛生学教室で数年間過ごした後、Kellogg財団に入った。第二次世界大戦終了後、彼はエール大学の医務担当副学長となり、後に組織改正によりその地位が廃止になると、人類生態学教授となった。1957年まで同職にあったが、その年Cannan氏から、科学、人類愛、そして国際理解に重要な貢献をする機会がABCCにおいて得られる、と説得された。

Darling は特に何をしたのであろうか。その業績は何か。その幾つかは決定的な重要性を持っている。

調査プログラムの継続を保証

ABCCの初期においては、H.J. Mullerらの調査が遺伝調査の重要性を示しており、放射線の突然変異誘発による影響の一つに先天性奇形の増加があることが明瞭になっていたが、体細胞への影響についてはほとんど分かっていなかった。放射線被ばくに起因する寿命短縮に関する報告書は以前にもあり、これを基にして「加齢促進」の仮説(現在は否定されている)が立てられた。ABCCにおける臨床調査は明確な目標なしに開始された。その結果、様々な研究者が別々に調査計画を立てた。幾つかの例外を除いて、米国の医師は、なすべきことについて自分だけの考えを持って2年間限りの「視察」のためにABCCにやって来た。観察のための計画は変更され、特定の調査集団を設定するという考え方は定着していなかった。
Francis委員会の報告書(1955年)は調査の継続性が極めて重要であることを強調した。この報告書で示された調査計画の重要な要素の一つは、疾患率の決定および経時的変化の追跡を可能にするような、明確に定義された固定集団の設定であった。Darling所長はFrancis委員会の勧告を真剣に受け止め、調査プログラムは新しい臨床部長や病理部長が赴任するたびにその考えに合うように変更してはならないことを強硬に主張した。

調査プログラム間の調整を行う

調査対象者が同一である場合にのみ、病理調査と臨床調査プログラムは互いに支援し合うことができるのは明瞭であるが、調査プログラムの初期においては相互の調整をしようとする試みは見られなかった。
統合調査計画実施を求めたFrancis委員会の勧告に基づいて、寿命調査集団の副次集団として臨床調査集団が設定された。剖検、腫瘍登録および白血病登録プログラムも同じ調査集団に基づくものであった。遺伝生化学調査プログラムも、当初の遺伝調査から得られた子供の集団に、戸籍から判明した寿命調査対象者の子供を追加することができた。

日本人研究者との協力の重要性を強調

ABCCが設立された1940年代後半には、連合国による日本占領がまだ続いており、日本国民は自国の再建と生存のための食糧生産に追われていた。ABCCは進駐軍から支援を得ると共に、同軍の威信と支配者としての地位にあやかっていた。要するに、ABCCはやりたいことを何でも実行していた。
時の経過と共に、日本の復興と占領時代の終焉によって、日本で日本人を対象に調査を行う外国の研究所としてのABCCの地位は異常なものと見られるようになってきた。1975年にABCCが解散され、放影研が設立されることにより、この異常性が解消されるのは何年も先のことであったが、長期的に見れば日本の研究者、政府機関および大学の協力なしに外国人が調査を継続することはできないことはDarling所長には明らかであった。

ABCCの最も初期には、日本人準所長(槙弘氏および永井勇氏)が置かれたが、Darling所長はその他の研究者 - 多くは退職した大学教授であった - を部長や顧問として採用した。例えば、日本人放射線科医の長老であった中泉正徳氏は、ABCCと日本の放射線学界との関係を円滑にすることができた。著名な疫学者であった野辺地慶三氏は疫学部を組織し、幾人かの若い疫学者(30年にわたりABCC-放影研に勤務し、最近退職した加藤寛夫氏を含む)を招聘した。

1958年に、日米共同調査を正式に実施するための最初の合意書が日米両国の間で交換され、寿命調査が開始された。左から2人目から順に、中村敬三予研所長、中泉正徳ABCC準所長(1956-64年)、尾村偉久厚生省公衆衛生局長、George Darling所長、槙弘ABCC準所長(1948-75年)、河角泰助厚生省公衆衛生局企画課長。

2年という短期で入れ替わる外国人職員によってABCCがいつまでも自らを維持し続けることは不可能であった。他方いかなる分野にせよ、若い日本人研究者が、担当教授の強い要請もなく、長期・短期のいずれでも、ABCCの調査に進んで参加を希望するのを期待することは無益であった。Darling所長はこの問題を認識し、解決策を講じた。

その結果、ABCCは、若く、意欲的な日本人生化学者、遺伝学者、病理学者、疫学者および生物統計学者を獲得した。この人たちがいなければ、調査プログラムは存続し得なかったであろう。

調査プログラムと日本の研究機関の連携強化

1948年にABCCが設立された時に、厚生省の管轄機関である国立予防衛生研究所(予研)がABCCに対応する機関となることが決定された。予研の支所が広島と長崎の両市に設立され、両支所はABCCの研究部門と密接な連携を取りながら活動した。

1963年に開催された学術諮問委員会:左から、Thomas Francis Jr.氏、定地憲爾ABCC通訳、Darling所長、中泉正徳ABCC準所長。Darling所長の向かいに座っているのは中村敬三予研所長。永井勇長崎予研支所長がテーブルの端に座っている。

しかしながら、Darling所長は、予研所長と協議の上、この関係を強化し、正式のものとすることに決めた。寿命調査、成人健康調査、病理調査、被爆者の子供の調査など、主な調査研究のための正式な日英両語の研究計画書が作成され、ABCCのみならず予研によっても検討された。主要な調査プログラムごとに合同諮問のための協議会が置かれた。更に日本の上級諮問委員会が設置され、予研所長がその委員長となり、両市の大学の学長、医学部長、政府および地元医師会関係者がその委員を務めた。

病理協議会(合同諮問会議)、1967年4月。テーブルの向こう側、左から、中村敬三予研所長、一人おいてDarling所長、Albert Hilberg氏(米国公衆衛生総局)、R. Keith Cannan氏(米国学術会議)、頼近健二ABCC通訳。手前左で原稿を読んでいるのは、曽田長宗国立公衆衛生院長。

日英両語による出版開始

ほとんど外国人職員により作成されたABCCの最も初期の報告書は、英語で書かれており、米国の雑誌に発表されることが多かった。これは、ABCCが外国の研究所であることを強調し、「米国人は日本人被爆者をモルモット扱いし、被爆者の治療には無関心であって、調査結果を隠蔽して、米国政府による新しい帝国主義戦争への準備の一環としてABCCを利用している」という理由の基に、ABCCに反発している活動家を更にあおることになった。

Darling所長が最初に行ったことの一つは、すべての報告書をまずABCC業績報告書として日英両語で出版することであった。著者は、報告書が日英両語の業績報告書として承認された後にのみ日本語、英語(あるいはその他の言語)のいずれでも出版できるようにした。これは翻訳員にとっては大きな負担であり、これが業績報告書の出版がしばしば遅れた理由の一つであった。しかし、調査結果を公表し、それを日本人および諸外国が利用できるようにすることがABCCの信条であることを示したという意味において、Darling所長の取ったこの措置は極めて重要であった。

興味深いことに、ABCCが、日本人理事長と日米両国から同数づつ選ばれた理事により監督される放影研に改組された1975年以降、業績報告書の日英両語による出版は余り重要でなくなったようである。多くの報告書は現在英語のみで出版されており、要約のみが日本語に翻訳されて添付されている。

合同調査団の資料を取り戻す

1946年から活動を開始し、軍の指揮下にあった「日本における原爆影響の合同調査団」は、病理試料、報告書およびデータ一覧表をワシントンの米軍病理研究所に保管し、それを当然とした。おそらく、当時、その他に適当な場所がなかったのであろう。日本人および日本の大学は、各自の施設の再建に全エネルギーを費やしており、合同調査団の医学データや試料の保管・保護にほとんど注意を向ける余力がなかった。しかし、米国人がこれらの資料を邪悪な目的のために日本から持ち去ったとする非難が繰り返され、日本社会の一部分子との摩擦が続く原因となった。Darling所長はこの問題の源を断とうと決心し、最終的には成功した。病理試料およびその他の資料は、1969年に長崎と広島の大学に返却された。

ABCCは他に類を見ない調査機関であり、その成功をただ一人の人物の功績に帰することはできない。多くの人々が極めて重要な貢献をし、Shields Warren氏や、特にR. Keith Cannan氏の貢献は非常に大きなものであった。たしかに洞察力、計画、準備といったものが重要ではあったが、しかし、それらを実行に移すことが残っていた。George Darling所長の巧みで思慮深い、また忍耐強くひたむきな努力がなければ、ABCCがこのように成功し、長期にわたり調査を継続することはできなかったであろう。

ABCC臨床部の矢野勝彦研究員(右端)が1967年の成人健康調査協議会で報告しているところ。向こう側左から、Gilbert Beebe氏、Kenneth Johnson氏、Benedict Harris ABCC臨床部長、Darling所長、一人おいて中村敬三予研所長。

Scott Matsumoto医科社会学部長(左)がDarling所長からABCC勤続10年(1957-67年)の表彰状を受ける。


この記事は RERF Update 3(1):5-7, 1991に掲載された回顧録を翻訳したものです。著者とABCC-放影研との長い関わりは、著者がABCC調査プログラムの検討を目的としたFrancis委員会の委員として来日した1955年に始まりました。Jablon氏は1960-63年と1968-71年に放影研の統計部長を務め、その後1978年から1987年まで米国学術会議の国際部副部長を務めました。

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