思い出

藤本 君枝 (広島受付、1948-1965年)

昭和21年の11月県立病院で無料健康診断を行っていることをラヂオニュースで知りましたので、早速診ていただきにまいりました。医学の力で健康を求める多くの人々が来ておられ、男性の方が通訳兼受付をして、目まぐるしく活躍しておられました。

その時、女性の患者さんのお世話をされる方がないので思いがけなく私がドクター・スネルにたのまれまして、診察期間中受付をお手伝いする事になりました。黄昏の焼け野原を通って、民家の多い己斐町へ帰る時の淋しい気持ちを、医薬を求められる多くの患者さんのためならば、微力ながらお役に立てばと自分をはげましては毎日通勤するようになりました。

それから数か月、ABCCは日赤病院内に間借りながら、日赤病院の武島先生の明朗なご活躍や新田さんのご奮闘で、初代の3名のアメリカのドクター、ニール先生、スネル先生、ブラック先生が殺風景な、三つの部室で活動しておられました。

ドクター・スネルから正式に就職の話がありました時は「連絡員」を募集中の頃でしたが、昭和23年1月5日に男性の方が3名連絡員として就職されたように思います。そのうちの1名が森山功さん(管理事務室)でした。毎日午前中に定員数の25名の診察をしますために、午後から私たち4名の連絡員が出かけました。その頃の輸送機関はジープ1台と3/4トントラック1台で米人ドクターの渉外交渉や患者の送迎、買い出しなどに行ってもらっていましたため、二世の運転手さんと高橋さんのご機嫌が大事でした。

1台のトラックに4名の連絡員が乗り、指定地の中心部で皆が下車して、各自の割り当て人数を徒歩で連絡の仕事をしました。帰る時間を打合せておき、指定の場所に集合して、またトラックに乗って日赤病院へ帰り、次の日の準備をしました。呉市の山の上まで歩いた事や何時も駆け足で働いていました事が今思いますと随分心せわしいことでした。でもその時代にはそれを苦労とも思いませんでした。

2カ月後には受付と内勤に変わりました。診察は午前中だけでした。25名の診察を一人の日本人の医師が担当されました。私はひとりひとりの氏名、生年月日、被爆地、当時の服装、などを記入した書類を完了して、次の診察室へ行っていただきました。患者さんのその時のご協力のあり方で、早くなり、遅くもなっていました。

広島では、被爆者の健康診断を行い、呉市ではその対照者の方々を診察していましたから、交互に両市の勤務場所へ移動していました。

施設、備品、職員の不足の草分け時代でしたから顕微鏡用のカバーグラス、スライドグラスなどを求めて焼け野原にポツンポツンと立っている店をジープで廻った事や、電力制限を緩和していただく交渉のお伴をしました事など思い出します。研究所としての運営をドクター・スネルがのぞまれるようになるまでは、東洋と西洋の違いが多くありましたが、そんな時の皆さんの努力と理解が何よりの喜びでした。

リネンの取替えに付きまして、看護課の上村さんと中川さんは随分私がやかましい人だとお思いになられたようです。今は中川さんもミセス・ミラーとしてご立派なアメリカ様式が身に付いていらっしゃる事と思われます。3カ月に1回、血液の検査を全職員が受けるようになっていました。その当時食糧難の生活を長期間していましたせいか、血沈が1時間に25ミリも下る状態でした。その頃は毎日を精一杯働く意欲にもえていましたおかげで、夜中の12時までかかって、明日の洋服を仕立てましても、次の日の労働が平気であった事は今思い出しても感無量です。

明仁皇太子殿下を迎え、旧凱旋館をご案内するテスマー所長

受付の場所、内容も段々と発展致しました。最初にABCCの本館が実現するとうかがいましても、その日が来るでしょうか、と実現がとても遠く思われました。毎日患者さんの健康診断のお役に立てますように一途に勤めましたから年が過ぎるのも早いように思われます。当時のABCCは明日にも無くなるかも知れないと思いながら去って行かれた多くの方々が今更ながらなつかしく思われてなりません。


この記事はABCCニューズレター 1(7):5、1963に掲載されたものです。

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