若きよき時代の思い出

玉垣 秀也 (臨床部、1949-1965年)

玉垣秀也

昨年9月のある晩、比治山ホールの一室にシャール先生夫妻を訪ね30人たらずの者が集まった。旧遺伝部の人たち及び一緒に仕事をした看護婦さんたちである。

一同は共に働いたころの面白かった出来事、苦労話、ピクニックに行ったことなど、当時、物も食糧も不自由な時代であったが、シャール先生始めほとんどが20歳代の若いころの思い出はすべてが懐かしく、ときがたつのも忘れて話し込む程で、再会を約束して別れた。

まだ舗装されていない市内のでこぼこ道をジープにゆられて、ほこりをかぶりながら家から家へ、ときには橋の下の小屋掛けまで回って赤ちゃんを診察して行ったこと、まだ日赤病院二階に間借りの時代の出来事など、今も覚えている。遺伝部が廃止と決まり内科に移ったのであるが 間もなく起こったのが第五福竜丸事件(1954年)であった。ABCCのメンバーがアメリカ側調査団として、まず焼津に派遣された。最初のころは日本側の診療団と一緒に診察もできる状態と聞いていたのであるが、私たちが第二陣として送られたころには国内世論も厳しくなり、米国大使館付属建物の一室で待機を繰り返すのみで、結局一度の診察も許可されずに帰ることになった。

内科の病室が新設されて診療内容も充実し、検査のみならず入院治療までの体制も整い、ときには13あるベッドが全部使用されることもあって、昭和30年代としてはその設備とともに、当時国内では入手できない医薬品も使用することができ、白血病等の血液疾患、心不全等の救急医療患者など24時間体制で治療にあたることもあり、大きな働きができた。私自身にとってもアメリカからの若い優秀なスタッフと共に働くことができ、bed side teaching、毎週のconference lectureなどまだ新しかったアメリカ医学教育の一端に接し、目が開かれた思いであった。

当初の好調な受診率を保つために、調査に協力して来てくださる受診者の受け入れ態勢には特に注意して、新任医師へのorientationには必ず病院の患者とは違う心構えをするように話したものである。もちろん、このことは診察に関係ある部門ばかりでなく、ABCC職員全体の認識であったと思うが、少数の診察拒否の人たちの説得に私が出掛けたことがあり、かえってその全員からひどく反発の言葉を浴びせられ、それぞれがもっている体と心の傷の深さに気付かされるとともに、その一人の協力を得るための連絡部の人たちの苦労を身をもって体験したのである。

入院患者を回診する内科スタッフ

こうして多くの出来事、事件や困難な問題にも会い、毎年8月の新聞報道に悩まされながらの17年間であったが、その中から実に多くのものを得た。特に、個人的にはケネディ大統領就任前後というすばらしい時期をワシントンで過ごすことができ、医学の研修ばかりでなく、大統領選挙の様子、当時問題となってきた人種差別問題にかかわる若い病院の職員たち、出産のため入院中の夫人を度々訪ねてくる大統領を病院の廊下で身近に見る機会があったこと等、得難い機会を与えられたことを心から感謝しています。 (玉垣医院)


この記事は放影研ニューズレター14(40周年記念特集号):22-23、1988の再掲です。

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