日米の理解深まる

定地憲爾(ABCC・放影研翻訳課長、1953-1989年)

1955-1988年のABCC-放影研病理プログラムの一環で剖検を実施した物故者の冥福を祈る法要にて。右端がGeorge B. Darling所長の通訳をする筆者。1963年。

長いABCCの歴史にGeorge B Darling博士ほど大きな痕跡を残した人はいない。博士はABCC所長として、他に類を見ない日米共同の科学的調査を実施する上で、優れた指導力、力量、外交手腕を発揮し、人類の福祉および日米間の友好・理解に寄与された。

ABCCの使命の再評価

1950年代初め、放射線の人類に及ぼす後影響について未解決の問題に答えるには、数十年が必要という学界全般の見解にもかかわらず、ABCCの研究プログラムを継続できるかどうかについて深刻な疑問が投げかけられた。

この問題を検討するため、米国学術会議の医学部長であったR. Keith Cannan博士が1955年10月に米国学士院-学術会議の顧問会議を開き、ABCCの研究計画を討議した。この会議を発端に、固定集団に基づく統合研究計画の実施が勧告されるに至った。これによりABCCプログラムを再検討するための特別委員会が設置され、ミシガン大学のThomas Francis Jr 疫学教授が委員長を務めた。Francis委員会の勧告は、こうして将来のABCC-放影研研究プログラムの青写真となった。
Cannan博士は日米平和条約調印後の日本の政治的風潮や、想定される原爆医療法制定の影響のみならず、Francis委員会勧告を実行する上で研究・外交両面における指導力と英知が必要であることもよく知っていた。そして1957年にDarling博士がABCC所長に任命された。

言葉でつながれる

Darling所長は地元・学界・政府関係機関の協力がなければABCC研究プログラムが支障なく効率的に実施できないことを認識し、1957年7月にすべての業績報告書はもちろん研究に使用する書式もすべて日英両語とするよう指示した。
さらに翌年には、広島県医師会と取り決めをし、広島医学にABCC欄を設け、ABCCの研究業績を日本で公開されている文献に発表できるようにした。

Darling所長はABCC看護婦スタッフの強力な擁護者であったとも言われている。所長の向って右隣は1953-1978年までABCC看護婦長を務めた渡辺千代子氏。

米国機関との関係強化

その後同じ1958年に、Cannan博士はABCCプログラム管理の継続性を確保する措置を講じ、ABCC臨床部はエール大学医学部のPaul Beeson博士、統計部は米国学士院―学術会議の追跡調査機関のGilbert Beebe博士、病理部はカリフォルニア大学ロスアンジェルス校病理学教室のSidney Madden博士との関係を通してこれを実現した。

Darling所長以下ABCC職員が鋭意築き上げた日米協力・共同の精神が実り、統合研究計画は科学的に生産性の高いプログラムとなり、国際的にも認められた。そのため当時運営費の大半を負担していた米国の財政事情が悪化していたにもかかわらず、このプログラムを長期にわたり継続することに対して、日本側ABCC諮問委員会、米国学士院―学術会議のABCC諮問委員会、および米国原子力委員会から強い支持が得られた。

Darling所長は15年間ABCC所長として大きな功績を残し、自らの構想による新しく、真に日米共同と言える組織の土台を築き、米国へ帰られた。


この記事は RERF Update 3(3):8、1991の翻訳です。

戻る