テクニシャントレイニーとしての日々

谷口 清 (長崎臨床検査部、1949-1995)

新しく開設された長崎ラボラトリイのメンバー 長崎会館の玄関にて
スーパヴァイザーMr. タチバナの左が谷口氏

「アナタガタハ コノ ABCCデ トシヨリマデ ハタライテ クダサイ」……当時、長崎ABCCのセンサスに勤めていた妹の偶然の紹介により面接した際の、ライド氏のしづかなそして重みのある言葉であった。昭和24年4月のことである。その翌日から先任者木下嬢にクエツショニアの問い方、記載の仕方等を習う為、しばらくついてまわり、その後は天職とばかり、若さに物を言わせて、毎日ほこりっぽい、復興しかけの長崎の街々をかけめぐった。そんな或る日、主任から谷口君と浜崎君に用があるので管理部まで行くようにと云われ、今度は所長代理ムリン氏から、医学のテクニッシアン、トレイニイとして、広島に行くことをすすめられ、浜崎氏は即答をさけたが、私は次男坊の気軽さからニツ返事てOKした。

その年の11月のはじめ、他課や、所外からの希望者11名ばかりと共に、はじめて見る広島の、かっての凱旋館であるという宇品のABCCへ出勤した。ところが驚いた事にライト氏が現われ、「どうして他部へ移るのか、君等にはセンサスに於ける重要なポジションと仕事が定められている。すぐ長崎へ帰りなさい。」と、しきりと翻意を促された。私は勿論、センサスから来た他の二人も切角長崎くんだりから上って来た故もあり 又多分に新しい仕事、未知の世界の魅力にひかされて、一向に帰る気がしない。ライト氏は半ば怒った様にして、あきらめて帰ってゆかれた。それからずぶの素人の私達の前に、Biochemistry、Hematology、Serology、Histology、Parasitology、Photography、X-rayの文字と必要な人数が黒板に示され、その中からいづれかを選ぶようにとのこと。なかなかきまらなかったが、 Biochemistry、Histology、Parasitologyとぼつぼつ決まり、最後にPhotographyが残った。私は迷ったが、心にきめてSerologyと云った。Photographyは自身がなかったからである。このようにして一応各自の部署が定まると、直ぐ夫々のセクションに連れてゆかれた。

ところがSerologyの2人だけはそのまま残された。Serologyは呉市にあって、その夜は宇品に一泊し、翌朝車でそこまて行くという。長崎から来た他の人達と別れるのかと、ふっと淋しい、心細い感が湧いたが、もう一人が女性であるので、そこは男が、と、グッとこらえて勇んだような振舞て、翌朝ピカピカの車で呉に向って急いだ。これからの行手の何か明るい、大きな力強い希望を象徴するかのような、宇品沖のまぶしい海と空のかがやきをながめながら……。“グッモーニング マム”“グッドモーニンク”英語の比重が一挙に高くなる。スーパヴァイザーはミス ローテンバーグ、在呉濠軍少尉といういかめしい肩書き、仕事には極めて厳格で、ラボラトリイのマナーを徹底的に仕込まれた。一日に幾度不馴れの私達は叱言を言われ言葉の不自由さもあって、つらい思いをした。二人の女性はよく叱られて、大粒の涙を浮べたまま窓にむかって立ち尽し、ふり向かなかった。仕事は仲々教えて貰えず、毎日毎日、クロム硫酸、グリーンソープによる検査器具の洗滌、検査の準備、整理、整頓の月日が続いた。広島からの同僚の葉書にはそろそろ仕事を覚えて、大分馴れて面白い毎日だとある。早く仕事を覚えて長崎に帰りたい気がつのりつつある時に、ふっと寄生虫に侵された。宿で服薬し、量を誤って巨躯の濠軍兵士並の量一日分を一回に頓服して反応がすこぶる激しく参ってしまった。二、三日休んだので、ミスローテンバーグが見舞に来て下さった。もともと評判のきれいな人だったが、やさしく慰問して下さったその時程美人と思った事はなかった。その頃、新田氏、小別所氏等の人達や呉のABCCの人達の顔や親切は忘れることが出来ない。

その年の暮、宇品でクリスマスパーティがあった。なつかしい長崎の人達と遊ぶのに時を忘れ、呉に帰る車の便を失してしまった。途方にくれたが、いろいろ尋ねまわると、呉に向う車が一台残っているという。二階、三階とかけまわって、やっと車の主を尋ねあて一生懸命事情を話して兎に角、同乗を許されて、途中気安くしゃべりながら無事呉に帰った。後でその人こそテスマー所長と判って恐縮し、お礼の手紙を送った事がある。

翌年になり在日アメリカ軍406陸軍病院から長崎のラボラトリイのスーパヴァイザーになられるミスターフランシス・タチバナと云う大きな肥った二世の人が呉のセロロジイの客員となられた。なかなか愉快な人であったが、学問的にも詳しく、よくミス ローテンバーグと補体結合反応の事などで論議されていた。その頃からミス ローテンバーグの気心も知れ、仕事に張合いが出来るし、ABCCのこともだんだん分って来て毎日が仕事、勉強、遊びと忙がしくなりだした。蘭守さん、丸尾さん、鈴木さん、皆んな殆んどやめられたが今も時々文通している。

やがて帰崎の時が来て、焼跡の医大の一角をかりてミスタータチバナの指導で、急速にラボラトリイの創設にかかり、ラボラトリイは漸く動き始めたのであった。共に学んだその時のトレイニイ仲間は今では二、三人しかいないだろう。


この記事は放影研ニューズレター 1(9):5, 1963に掲載されたものです。

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