ABCC-放影研と共に歩んだ道

山縣 要一 (研究渉外部、1948-1980年)

山縣 要一氏

昭和25年に実施された国勢調査の付帯調査に基づき、私たち調査員は被爆者の家庭を訪問し、原爆被爆者の放射線障害に関する被爆質問票(RQ)に調査記入することが重要な任務でした。その実施に先立って数枚のコピー用紙をもらって宇品地区を試行実施したのが始まりでした。自信を得て、以後一日に35枚が可能となり、順調に進みました。その中には水上生活者世帯や孤児院等、施設収容中の方々も含まれていました。面接に際しては、すべて初体験でしたので細心の注意を払わなければなりませんでした。

この調査では家族に関することや、また転宅先などで市役所、各出張所の窓口を訪れたほか、町内会長宅、民生委員宅、巡査派出所等、各方面に多大の協力をいただきました。

やがて市内に、中央、己斐、京橋、舟入、大河、後に水主町の6ヶ所に出張所が開設され、私は昭和28年7月から昭和32年3月まで、西部地区担当の己斐出張所所長として配属されました。この町は戦前戦後を通じ造園業で知られ、裕福でもあり、爆心地よりやや離れ、被爆からの立ち上がりが早いようでした。当時宇品凱旋館にあった本部から、各出張所(所員6~10名)にカードが回され、所長が全員に配分し、自転車で調査致しました。そのころ、出生調査(妊婦登録)も実施することになり、助産婦宅も訪問致しました。地区の皆様の好意で完了したこの調査は、後のPE-18、PE-86、F1等の調査の基盤となった調査でございました。

いろいろの質問票調査にたずさわった 己斐出張所のメンバー

RQ調査が終わりに近付くと、各出張所の閉鎖が始まり、昭和32年には全員比治山に移りました。このころ、基本標本質問票(MSQ)の調査が始まり、50~60人の調査員で地区ごとに被爆者の各家庭を訪問面接致しました。ジープ60台と自転車を併用しての調査は、更に詳細に、海田~五日市、岩国方面までも、一日10軒近く訪問致しました。

このMSQはRQと同様に、現在のST-100、ME-200の基になった重要な調査でございました。

後日、昭和34年には連絡業務の能率を増進し、業務に社会学的観点を導入することの重要性が認められ、医科社会学部が創設されました。部長のDr.松本からカウンセリングの技術を習得し、更に医療社会事業主催の講習会、研修会等にも参加し、以後の業績の面でプラスになったと同時に、被爆者の方々にも感謝され、大変有意義な勉強をさせていただきました。

今年40周年になる放影研と共に歩んだ小生、いろんな出来事が走馬灯のように巡ります。
これからも世界人類平和のため、放影研のご発展をお祈り申し上げます。


この記事は放影研ニューズレター14(40周年記念特集号):42、1988の再掲です。

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