MillerのABCC-放影研の想い出、1953~1990年 第4部

MillerのABCC-放影研の想い出、1953~1990年:第4部

メリーランド州ベセスダ 米国癌研究所 臨床疫学部門 Robert W Miller

ABCC退職:ワシントンからの追想

1955年2月21日、妻と私は神戸で結婚した。ABCCを5月18日に去って約2週間後、職もないまま、私たちはニューヨーク州ロチェスターに到着した。私は小児科医であったが、卒後研修で放射線の人体への影響について学んでいたので、小児学と放射線学の2つを統合した分野で経験を積もうとABCCへ赴き、広島研究所の小児科部長として1年半勤務した。放射線生物学の特別研究奨学金を選ぶ際に、自分の専門を単一の臓器系や血液学、新生児学などの下位分野に狭めないようにした。ABCCを退職し、職探しをしていた間、私は自分の専門がいかに狭いものであるかに気づいた。つまり、放射線の影響について知識のある小児科医など誰も必要としていなかったのだ。職探しに行くと先々で、小児放射線科医になるよう勧められた。しかしそのためにはさらに3年間の研修が必要であった。

4カ月後、米国学士院(NAS)のABCC担当部門で研究業務アドバイザーをしていたFrank (Tax) Connellが間もなく退職するという情報を得た。私は必要な資格を持っており、その職に月契約で就くことができたので、専門的な仕事を焦らず探すことができた。

私たちは10月初旬、ワシントンに到着した。NASの医科学部門の部長に就任して間もないR Keith Cannanは多くの仕事に携わっており、ABCCも担当していた。彼は生化学者であったが、管理者としても傑出しており、長い間、米国の医学上重要な問題に関する報告書を作成していた数多くの委員会を統率していた。Cannanは委員会の会議の一部に出席し、審議が順調に進行していないものがあれば軌道修正した。彼は英国人で、演説や文書作成の才能に恵まれており、彼の編集した委員会の報告書は水準の高いものであった。彼を観察できたおかげで、私は委員会を充実させる方法が分かるようになった。

Cannanは医師ではなかったので、私はABCC関連の医学上の問題や職員の採用について日常的にCannanの手助けをした。彼は医学に関しては私の文章の手直しはめったにしなかったが、礼状は別であった。彼はどの礼状も心のこもったものにし、受け取り手のそれぞれに特別な一文も書き添えた。

数年後、常勤の上級研究員の管理下にあった医科学部門が、時折会合を持っていた科学者たちの委員会の管理下にあった生命科学部会に変わることになり、私が就いていた地位はかなり影響力を持つようになった。

CannanはNASに着任して間もなく、ABCCが学術的にも運営面でも困難な状況にあることを知った。ABCCの事業に関する助言は、臨床の専門家の指導者たちが日本の病院への訪問やワシントンの原爆傷害委員会の定例会議を通じて与えていた。基礎科学者であったCannanは、日本での調査計画における疫学の重要性を明らかにした中心人物だった。当時の臨床医は、疫学について考えたことがあったにせよ、感染症との関係においてのみ考慮するという程度でしかなかった。慢性疾患疫学は登場したばかりで、第二次世界大戦の退役軍人の軍事経験と退役後の疾患との関係について調査が行われていたNASの医学追跡調査局(MFUA)においても同様であった。現在も継続中のMFUAでのその調査は、1946年に外科医のMichael E DeBakeyと統計学者のGilbert W Beebeによって始められた。Beebeが指導していたMFUAはNASに属していたが、1955年までABCCと正式なつながりはなかった。

私は最近まで広島ABCCの職員だったので、ABCCが抱えている研究と人間関係のどちらの問題もよく知っていた。例えば、ABCCの臨床医が被爆者の検診データを収集しても、生物統計部は、観察者による偏りを少なくするため、カルテに記載されていない爆心地からの距離により放射線被曝線量を推定した。生物統計学者たちは放射線被曝の線量推定データを生物統計部のみのものと考えていたため、臨床医が自分たちの収集したデータを解析する場合に重要な線量推定データを得るのは困難であった。

ABCCの職員は、外国の小さな共同体の中に孤立していたため、その短所が強められた。ABCCの所長にとって、日本政府の役人や研究員、被爆者、報道関係者、ABCC労働組合とうまく付き合いながら、職員をまとめ、職場を良い雰囲気に保つのは骨の折れる仕事であった。遺伝学調査プログラム以外における職員の士気や調査計画は、CannanがFrancis委員会を開催した1955年において重大な問題であった。委員会の委員長Thomas Francis Jrは、ソーク型ポリオワクチンの大規模な試験を終えたばかりであった。医師でありウイルス学者でもあった彼は、感染症疫学の専門家でもあった。委員会のメンバーには、MFUAの統計学者のSeymour Jablonや国立心臓研究所の統計部長で、第二次世界大戦中、日本に関係する軍事諜報機関で働いたFelix E Mooreなどもいた。委員会の一行は、私たちがワシントンに到着したのとちょうど同じ頃に広島に向け出発した。私はABCCの米国人顧問と接した経験から、委員たちがこれまでと同様、VIP待遇や日本滞在の魅力に屈し、当たり障りのない報告書を作成するだろうと思っていた。

ところが、Francis委員会の委員一行はABCCに3週間滞在中、様々な場所に赴き、職員や職員の妻たちから調査計画や士気に関する問題を事実上すべて聞き知った。1955年11月6日付のFrancis委員会の報告書にこの問題は要約され、将来計画が記載された。この将来計画は今日でも有効である。報告書は中心となる統合研究計画の実施を提唱しており、固定集団の設定、疫学調査または罹患率調査の継続、臨床調査、剖検調査、死亡診断書調査、所要職員などの項目から構成されていた。それぞれの項目ごとに細かい説明が行われ、本籍地における集団を調査の基盤にすることの重要性が強調されていた。(住所変更や人口動態は戸籍という名称でこれらの記録を保管する役所に報告される。ある人が日本国内のどこにいようと、その人口動態はその人の本籍地の役所に報告され、戸籍に記入される。このシステムにより追跡調査が極めて容易になる。)このような勧告により、死亡診断書の調査に基づいた約12万人を対象とする寿命調査や、臨床検診に基づいた約20,000人を対象とする成人健康調査が確立された。Francis委員会の報告は、疫学において画期的なものである。

興味深い覚え書き:ABCCに関するワシントンのファイルには、Francis委員会のメンバーが最終決定される以前に有名な科学担当官が書いた手紙があった。この手紙にはFrancisは成功しないだろうと、はっきりしない予測が書かれていた。約1年後、もう1人の急性疾患疫学者が、勧告に付け加えることがあるかどうか検討するため、顧問として単独で派遣された。彼は、急性疾患疫学による自分のやり方をABCCに適応させるのに苦労し、勧告に何も付け加えることができなかった。

次にCannanは、研究員の採用に注意を向けた。George B Darlingが所長に推薦された。Darlingは、マサチューセッツ工科大学やエール大学で疫学の研鑚を積んだ後、エール大学疫学部の教授を務めており、大学の管理においても豊富な経験を持っていた。彼は夫人とNASに面接に訪れ、Cannanが研究や管理面に関する説明をする間、私と妻はDarling夫人に日本の生活について話した。夫妻は2年契約で訪日することに同意したが、実際には1972年にDarlingが退職するまで15年間日本に滞在した。

次に行うべきことは、臨床部、病理部、統計部を継続させることであった。Cannanはエール大学、UCLAおよびMFUA と、各部への初代の部長の派遣に関する取り決めをした。これにより初代部長として派遣された者は、James W Hollingsworth (エール大学臨床部)、Sidney C Madden (UCLA病理部) 、Beebe (MFUA統計部) であった。任期が満了すると、彼らの出身学部から後任が選ばれた。このような部長交替は、それぞれの部に適任者がいなくなるまで数回にわたって行われた。シアトルのワシントン大学は、MFUAに代わり生物統計学者の派遣元となった。

Cannanは国立衛生研究所(NIH)所長のJames Shannonに臨床部職員の派遣への支援を求めた。当時、医師の徴兵制度では、通常、インターンまたはレジデントとしての研修の最終年度から2年間軍務に服することが必要であった。陸軍か海軍以外の選択肢は公衆衛生局(PHS)であり、NIHで2年間研究をすることができた。Shannonは、私たちが選び、Shannonの部下も承認した人物をPHSに入局させ、NIHに配属後ABCCに派遣されるようにした。Shannonはまた、NIHの管理担当者の1人と私が勤務の詳細について検討するための手はずを整えてくれたが、最初は、数カ月間給与用の小切手がないという混乱に見舞われた。私の業務には志願者の面接をし、Cannanとの面接に同行することも含まれていた。PHSのプログラムとは別に、年長者も数名面接した。志願者の多くは、好印象を与えようと、通常長々と回りくどい話を始めたが、これはCannanには耐えられなかった。Cannanは話された内容を一文にまとめてみせた。志願者は自分がCannanには及ばないと気付くと、それからは押し黙っていた。志願者が出て行くと、Cannanは、「言いたいことがあまりなかったようだね」と言ったものだった。

1955年、私たちはHaward B Hamiltonの空軍での任務に注目した。Hamiltonは実験を専門とする研究者であったが、空軍基地で通常の臨床業務に従事する予定になっていた。上司のLouis HempelmannはCannanに、HamiltonをABCCに配属させる仲介をしてくれるよう手紙で依頼した。Hamiltonは名古屋の空軍基地に配属され、2-3週間後にABCCに派遣されて、29年後に退職するまで臨床検査部の部長として勤務した。

ABCC職員を採用するために面接を行う際に、私は応募者が日本の生活を楽しめるかどうかを予測できそうな質問を考え出すように努力した。最も妥当と思われたのは、「New Yorker誌は好きですか」という質問であった。New Yorker誌が好きな人はほとんど例外なく日本が好きになった。この雑誌には毎号、ニューヨークの生活に関する小エッセイや漫画、「Block that Metaphor」のようなニュース記事、評論、人物紹介、小説、詩など、多種多様な特集があり、様々な考察をすることができる。日本に住むことにも多くの発見がある。

私がNASに勤務していた頃、ある女性が電話をしてきて、交換手に自分が死亡した場合の献体について誰かと話したいと言ったという話を聞いた。交換手は、「人事課におつなぎしますので少々お待ちください」と答えたのである。私がその逸話をNew Yorker誌へ送ったところ、3週間後、「The Talk of the Town」という欄に発表され、25ドルの小切手が送られてきた。

また私がNASにいた頃、原爆放射線の生物学的影響に関するNASの委員会の報告書が作成されていた。この報告書は放射線防護のためにABCCのデータを初めて使用したものであった。この報告書では、一般の人々に最も多い被曝は、放射線検査によるもの、とりわけ透視診断法によるものであるが、X線フィルム撮影による検査ならばはるかに低い線量で、透視診断と同程度か高い精度で診断を行うことができると結論付けられていた。類似の報告書を英国の医療審議会のWilliam Court BrownとRichard Dollが作成中であった。Sir Harold Himsworthはその報告書のため、未発表のABCCのデータを入手する目的でCannanを訪問した。Cannanは、私たちが持っているデータは何でも出すよう私に言った。私は十分考慮もせず、最新の白血病データのコピーをCannanに渡したが、CourtとDollは、ABCCのNiel Wald とその血液学グループより先にそのデータを解析し発表した。

ABCCの研究に助言を行っていた原爆傷害に関する委員会は、Cannanが委員会の議題を揃えるたびに開催されていた。委員会の影響力については、ABCCの歴史の中でそれについては言及されていないことから推し測ることができる。例外は、John Z Bowers による失敗した試みであるが、私の記憶では、彼が書いたことの多くはこの委員会の議事録に基づいていた。NASにいた当時の会議で私が記憶しているのは1回だけである。座長は、ブルックヘブン国立研究所の常勤の研究員で小児腎臓の専門医のLee Farrであった。私は会議の企画を手伝い、その会議で、原爆被爆から10年後の子供に関する新たな所見について簡単に説明した。胎内被爆者に見られる小頭症や精神遅滞、小児期被爆者に認められる白血病の過剰について私が説明していた時、私の母校で放射線学の主任教授を務めていたEugene Pendergrassと後任のRichard Chamberlainが冷笑しながら聞こえよがしに話すのを聞いた。当時の放射線学者は、放射線の人体への悪影響に関する報告に敵意を示していた。私が話し終えると、FarrはPendergrassらと共に、「引用をありがとう」と言った。

私は研究員の採用のほか、後任の推薦にもかかわっていた。ABCCの生物統計部の部長は、神経生理学者のLowell A Woodburyであったが、契約更新の時期が迫った時に、私はCannanに対して、Woodburyの今後についての懸念を伝えた。Woodburyは統計学の研修を受けていなかったため、日本滞在が長引くにつれ、米国で職を得る機会が少なくなるだろうと思われた。しかし、彼は米国に帰国すると間もなくタイにおける人口動態統計学の改善を目的としたWHO関連の職を見つけ、その後引退するまでタイで働いた。

放射線科部長のArthur W Prydeは、8年間もABCCに在職し、新しい放射線技術について疎くなる一方だった。Woodburyの場合と同じような懸念があった。Prydeはペンシルバニア大学でレジデントとしての研修経験があった。Prydeは日本で結婚すると、米国で再び落ち着く時機だと考えた。彼は大学で6カ月間の再教育コースを受講した後、すぐにカリフォルニアで職を見つけ、残りの人生を同地で過ごした。

私たちが報酬の高い放射線学の分野からPrydeの後任を見つけられるだろうかと懸念していると、マサチューセッツ総合病院で研修を受けたPaul M St Aubinが後任候補として登場した。彼は2年間ABCCに在職した後ボストンに帰り、その後、1963-65年までネブラスカ大学の放射線科の主任を務めた。

NASにいた当時私は、自分が特に興味を持っているのは疫学的な観点から見た病因学であると気付いた。James V Neelは、時折Cannanを訪ね、1948-54年までABCCの遺伝学調査の対象となった、被爆していない子供に見られる血族結婚の影響調査について議論した。Neelは、広島と長崎における約7,500人の子供の臨床調査を指揮する小児科医を必要としていた。当時、結婚の約5%はいとこ同士で、2%はいとこ半あるいはまたいとこ同士で行われていた。ミシガン大学でNeelと1年間一緒に過ごせたことで、私はこの研究の準備を手伝うことができ、また公衆衛生学の修士号を取得することができた。その後私は、広島で1年、長崎で更に1年過ごした後、Ann Arborに戻り、公衆衛生学部での最終年を、調査データを用いて公衆衛生(疫学)の博士論文を書くために費やした。疫学教授のFrancisは、私が1957年の9月から研修を受けられるようにしてくれた。

私たちがワシントンに到着した当初、Cannan夫人はまだ英語が十分話せない私の妻に電話をかけ、コスモス・クラブの夕食に招待した。私は妻に、Cannan夫妻とどこで会うことになったのか聞いたところ、「女性用トイレ」だと言った。結局、クラブの女性専用入り口だと分かったが、当時は入り口が男女別になっていたのである。ワシントンで2年間過ごし、Ann Arborへの出発が近づいていた頃、私は妻に、Cannanは私がどれほど彼の手助けをしたか分かっていないかもしれないと言った。ところが、私たちはCannan夫妻に再びコスモス・クラブに招待された。今回は送別の昼食会で、関係職員も出席していた不意打ちパーティーだった。

Cannanは1967年の退職後間もなく、NASの会員に選ばれたが、これは博士にふさわしい名誉と言えるだろう。


Robert W Millerの回想録第1部RERF Update 5(4):7-9, 1993に、第2部は6(1):9-10, 1994に、第3部は6(2):8-10, 1994に、第4部は9(2):12-14, 1998に掲載されました。この記事はそれを翻訳したものです。Dr.Millerは1994年4月27日に米国癌研究所の名誉研究員になりました。

戻る