初期のABCC遺伝調査プログラム、1946-1954年

初期のABCC遺伝調査プログラム、1946-1954年

ミシガン大学医学部人類遺伝学および内科学名誉教授  James V Neel

前回の記事(RERF Update 1[4]:7-8, 1989)で、ABCCの始まりおよび遺伝プログラムの起源について述べた。読者の方々は、私が日本で遺伝プログラムの計画を立てるのに約7カ月間費やした後、1947年夏にワシントンDCへ戻り、米国学士院の諮問委員会へ遺伝調査の計画書を提出したことを覚えていることだろう。同委員会の支持を得て、このプログラムのために米国人研究者3人を採用し、1947年秋に日本へ戻り、設立されて間もないABCCのもとで調査を開始した。

我々の任務は広島・長崎で生まれる子供についてできるだけ多くを学ぶことであった。その鍵は、以前述べたように、終戦直後広島・長崎に居住していた妊婦のための特別配給制であった。妊娠5カ月の終わりに配給を受けるために女性が妊娠登録を行う時を利用して、記入してもらう質問票を作成した。登録は市内各所の保健所で行われていた。女性が登録する時に個人を同定する情報と被爆歴を入手し、その後子供の出生情報を得る計画であった。我々は1948年2月に広島で、同年7月に長崎で妊婦登録を開始した。出産後に得る情報には、子供の性別、出産時の生死、先天的奇形の有無、出生時体重、新生児死亡が含まれていた。

終戦直後の日本では出産の90%以上に助産婦が付き添ったので、広島・長崎では1948-1953年のほとんどの出産についてABCCへ通知ができた。 左上の写真は、データ収集の鍵を握っていた数百人の助産婦の一部と会合を持つABCC遺伝調査職員。 右上の写真は付き添いの助産婦から得られた情報の継続調査をするため新生児の家庭を往診する立野靖光医師と湊 潔子婦長。1953年末までに検診した76,000人以上の子供のうち約30%を、ABCCの小児科医は生後約9カ月時に再検診することができた。その後出生率の急激な低下により1954年に健康診断は終了したが、性比および新生児の生存に関するデータの収集は継続された。

初期の科学的予想

現時点で、この調査を開始した時の科学的予想について述べることは重要と思われる。

戦後初期には、放射線の遺伝的影響に関する主な情報はショウジョウバエに基づいていた。マウスへの放射線の遺伝的影響に関するデータ(こちらの方が人間のリスクを考える場合はより適切であった)は限られており、その主なものはマンハッタン工学地区(米国原爆プロジェクトを表す軍の暗号)のニューヨーク・ロチェスター支部でDonald Charles博士が実施した研究の結果であった。これらのデータおよび被爆者が受けた放射線量、また予想される子供の数から、被爆者の子供に統計的に有意な奇形の増加が認められるとは実際に予想していなかった。一方そのような予想をする科学者もいて、日米の大衆新聞が多くの突飛な推測を記事にした。これらの噂は、小児期に被爆した人が婚期に達すると深刻な問題を起こすというようなたぐいのものであった。前述したNAS諮問委員会は我々の見通しに同意したが、放射線の統計的に有意な影響は多分観察されないにもかかわらず、調査を進めるしかないと判断した。

一つだけ明白なことがあった。それは調査ができるだけ完全なものでなければならないということだった。乳児の幾人かではなく、乳児すべてに関するデータを得る必要があった。

重要な職務

当初このプログラムでは四つの職務が極めて重要だった。第一に若い日本人医師たち-その多くが医学部を卒業しインターンを終えたばかりだった-が実習のためABCCで仕事をしていた。その多くは広島・長崎の医学界で重要な人物になった。第二の極めて重要な人々は両市の助産婦だった。出産後助産婦たちは、妊婦が妊娠登録をした時に配られていた質問表に記入することを要請された。最後に、事務員と看護婦がいた。事務員は市の各所にあった保健所で質問表を見ながら面接をして、質問表から得られたデータを処理し、看護婦は家庭訪問および検診の時に医師の手助けをした。最終的に両市で約15人の事務員が採用された。読者の中には、初期に巧みに事務の指揮をされたJean Okumoto氏、また同氏と同じように臨床遺伝プログラムが終了した後も長年ABCC(および放影研)に残った「遺伝調査の」看護婦、湊 潔子、渡辺千代子、花園節子各氏を覚えている人も多いであろう。

この計画には医師および事務員の大規模な教育プログラムが必要であった。そして調査の説明のため、また報告してほしい所見の種類を説明するために何度助産婦たちに会ったことであろう!(後掲のSchull博士の記事を参照。)すべての新生児が医師の診察を受けるよう計画した。助産婦が子供に異常を認めた場合、我々にすぐ連絡して、医師の一人が直ちに家を訪れるようになっていた。子供が正常と思われる場合は、助産婦は少し時間がたって我々に連絡し、医師が看護婦と家を訪問した。これには何台かのジープと運転手が必要であった。プログラムの最盛期には、少なくとも200人が両市の遺伝プログラムに何らかのかかわりを持っていた。この臨床プログラムが終了した時に、これらの人々でABCCに留まりたい者はすべて他の職務に就くことができた。ABCCおよび放影研で長年仕事をした以前の「遺伝調査の運転手」には中川 勝と栗栖皆男両氏がいる。

日本の習慣を尊重:これぞ重要な一つの目標

調査の初期にハワイ生まれで当時広島日赤病院の若い外科医であった武島晃爾医師と出会ったのは極めて幸運であった(RERF Update 2[1]:7, 1990を参照)。始まったばかりの遺伝プログラムを日赤病院で実施していたころ、武島医師はまず私の、そして遺伝プログラムの後任理事たちの右腕であった。ABCC準所長および国立予防衛生研究所(予研)支所長に任命された後、槙 弘博士が1948年にこの職を引き継いだ。言うまでもなく、発展しつつあった遺伝プログラムは予研の側からも綿密な検討が行われた。

この調査ではできる限り日本の習慣を守る決意であった。この件については主として武島医師が我々に助言した。是非先天的障害の問題を解明したいと思っていたので、人が悲しんでいる最中にも押し掛け、家族の関連病歴の有無を知る必要があったので、非常に個人的な質問をしなければならなかった。プロに徹すると同時に深い思いやりも必要であった。時折迷惑をおかけしたことがあったとしても、先天的障害の著しい増加が観察されなかったことは、多くの若い被爆者とひいてはその子供の良い縁談を阻み得る大きな障害を一つ取り除くことができたということでお許しいただければと思う。

また読者に覚えておいていただきたいのは、この調査が戦後日本の米国占領下に始まり、言うまでもなく総司令部の同意が必要ではあったが、決して公式な「政策」ではなかったという点である。現在の放影研プログラムがそうであるように、その成功は日本人の自発的協力に依存していた。受診率が高かったのは、日本人の知性とABCC職員の知恵の賜物であると私は考える。

最大の初期ABCCプログラム

遺伝学部の事務員は市の保健所で質問表調査を実施し、その後収集したデータを処理した。1950年、原爆時の親の位置を爆心地からの距離に変換する作業に忙しい田井万里子事務員とその同僚。

米国側では、新しい人を採用し、その人に長く勤めてもらうことも必要なことの一つであった。当時私は日本への行き来を繰り返していたが、2年以上の任期で来た人々もいた。当初の米国人は小児科医・遺伝学者のRay Anderson博士、細胞遺伝学者の小谷万寿夫博士、データ処理の専門家Richard Brewer氏の3人であった。Rayは当時は軍に属しており、任務が終わるとすぐに帰国した(その後小児心臓病専門医となった)。あとの2人は残ったが、日本人遺伝学者を採用できなかったのでRayの後任は特に急ぐ必要があった。

その時(1949年)に、W J Schull博士をこのプログラムに招くことができたのは幸運であった。同氏はオハイオ州立大学で博士号を取得したばかりであった。2年間のABCC契約が終了したとき、私は喜んで彼をミシガン大学人類遺伝プログラムに採用した。私自身と同様に彼も同大学を基地に追跡調査にかかわりを持ち続けた。ABCCではSchull博士の後任としてDuncan McDonaldおよびNewton Morton両氏が採用された。

その頃ABCCでは小児科に力を入れ始めており、John Wood、James Yamazaki (RERF Update 1[4]:4, 1989参照)、Wayne & Jane Borges、Frank Poole、Robert Kurata、Stanley & Phyllis Wright、George Plummerなど極めて有能な一連の研究者がいた。この有能な小児科医たちのお陰で、遺伝プログラムに登録した全出生児(死産を含まない)の約30%を生後8-10カ月の時に再検診することができた。先天的障害に関する最も正確な情報を得るために、広島ではWilliam Wedemeyer、長崎では岡本直正両氏の指導のもとに剖検プログラムが開始された。

遺伝調査に直接、間接に関係した専門および支援職員を合わせると、この調査が初期ABCCプログラムのうち最大のものであったことは明白である。

人口集団の変化によるプログラムの終了

1950年代初期に広島助産婦の会と会合を持つABCC遺伝学部職員。立っているのは遺伝学部長のDuncan McDonald博士(左)と武島晃爾医師。通訳兼米国人職員の助言者としての武島医師の存在は不可欠であった。McDonald博士の右手は助産婦の会会長山本節子氏。

その当時広島・長崎に在住していた人々の放射線被ばく歴に関する情報はわずかであったので、我々の最初の計画には二つの比較、すなわち「対照」都市、広島は呉、長崎は佐世保が入っていた。事実、1948年3月に呉で妊娠登録を開始した。しかし後になって、広島・長崎の多くの住民が原爆時両市にいなかったか、市内にいても放射線被ばく地域の外にいたことが明らかになった。従って、我々の調査に十分な「内部」対照者がいると判断した。

それにより、1950年9月に8,391人ほどの妊娠終結に関するデータを収集した後、呉での作業を中止した。佐世保ではそれに相当する作業は実施されなかった。
遺伝プログラムを開始して数年後、満州・朝鮮半島・台湾から多くの日本人が引き揚げて人口が急増したことに対応し、日本政府は、少なくとも一部には出生率を減少させるために人工妊娠中絶の条件を緩和した。その後日本では、各国で人口統計が始まって以来最も急激な1,000人当たりの出生率の低下が続いた。
このような状況に直面してSchull博士と私は、当時のような方法でプログラムを継続することが後どれくらい科学的に正当化できるであろうかと考え始めた。我々は蓄積データの解析を毎年実施しており、今や全データの要約解析の時期が来ていると考えた。この解析はMcDonaldおよびMorton両博士の助けを借りて実施したが、原爆時に相当量の放射線に被ばくしたと思われる人々の子供と非被ばくの人々の子供にほとんど差異は認められなかった。

出生率の傾向を知っていたし、被爆した親の集団がいかに年々減少するかも知っていたので、我々は1950年代初めに将来を見通して、「これから5年または10年このようなデータを集め続ければ、結果の統計的正確性がどれだけ増すであろうか」という疑問を持った。我々は、この大規模なプログラムをもう5年または10年続けても統計的に有意な差が得られる可能性はほとんどないという結論を暫定的に出した。このような状況で、しかも現在の方法でプログラムを継続すべきであろうか。我々はそうすべきではないと考えたが、このように軌道に乗ったプログラムを止めるのは、このプログラムを開始した当初の決断と同じくらい重大なことであった。我々はNASの原爆傷害に関する委員会-当時の米国側の監督機関-に相談し、(我々の望み通り)遺伝学者の上級委員会にこの問題を提起するよう勧告を受けた。

この委員会は1953年にAnn Arborのミシガン大学で会議を開き、プログラムの大幅な縮小に合意し、その旨を勧告した(委員はGW Beadle、 DR Charles、CC Craig、LH Snyderおよび委員長のCurt Stern各博士)。健康診断は1954年初めに中止するが、新生児の性比および生存率についてはデータの収集を続けることになった。この二つの項目の観察が続けられたのは、一方では、性比の影響には境界線上の有意性が認められていたし、他方では、子供の生存率への親の被爆影響が小児期に現われる可能性も除外できなかったからである。しかし、新生児記録の蓄積を続ける別の理由があった(現在は出生届けによる)。これにより被爆者の子供の名簿作成が継続されることになり、もし将来遺伝学の進歩により原爆放射線被ばくの遺伝的影響を調査する新しい方法が開発されるならば、調査対象となる子供がすでに同定されていることになるのだ。

この決定を受けて、Schull博士と私はこの6年間の調査結果の最終解析に取り掛かった。このプログラムで合計76,626人の子供を検査した。予備解析の結果はすべて確認した。プログラムとその所見については、米国学士院-学術会議によって1956年に出版された広島・長崎における妊娠終結への原爆被爆の影響と題された本に記述されている。

当時、最も重要で適切なデータの利用法は、性比・先天的障害・死産・新生児死亡への被爆の影響について、特定の確率レベルで範囲を示すことであると思われた。この本の最終章でこれについて述べた。まさにこのデータが、その後の遺伝プログラムの改革と線量推定方式の劇的な改訂と、人類遺伝学の知識の進展によって得られたデータとあいまってヒトの放射線パラメータの最重要推定値である遺伝的倍加線量の推定をもたらしたのは、それから34年以上も先のことであった(Neelら、Am J Hum Genet 46:1053-72, 1990参照)。

謝 辞 詳細な数字について記憶を新たにさせて下さったWJ Schull博士に感謝を表する。


遺伝プログラムの始まりに不可欠であった日本人助産婦

テキサス大学健康科学センター遺伝センター所長 William J Schull

原爆被爆者とその子供の調査が行われてきた40年余りの間に、調査に貢献してきた地元の多くの人がその功績もほとんど知られないまま亡くなった。これはその中の2人、山本節子氏と村上テイ氏の話である。
彼女らの貢献の重要性を理解するには、初期の遺伝調査計画および当時の出産の風習を知っておく必要がある。

戦争直後とその後の数年間は、日本ではほとんどの子供が自宅で生まれた。医師が付き添ったのはその10%未満であったので、ABCCの遺伝プログラムの成功には助産婦の協力が不可欠であった。

1948年に遺伝調査が始まった頃は、両市とも何百人もの助産婦が活動していた。妊婦が市当局およびABCCで妊娠登録をした際、本人と夫の同定情報、詳細な被爆歴および以前の妊娠歴に関する用紙正副2通を記入した。この用紙には妊娠終結および子供の健康状態を記述するための空欄も設けられていた。1通は登録者が保管し、出産時に付き添い人に渡され、他の1通はABCCが保管した。助産婦はこの用紙の一部を記入し、妊娠終結について、また死産・未熟児死亡について我々に通知し、我々はその通知をもとに剖検のための遺体入手に努めた。各助産婦には調査プログラムへ報告した出産ごとに報酬が与えられたが、我々が提供した携帯用の秤で子供の体重を測る以外には、注意深く先天性奇形について記述するよう助産婦に期待することはできなかった。これは、出産の通知を受けた後保健婦に付き添われて家庭を訪問するABCCの医師の役割であった。

世界中の医療または医療補助グループと同様に、助産婦は協会を結成しており、その協会には会長と副会長が1人ずついて協会の管理に当たる評議会があった。広島・長崎での出産を臨床的に調査した約6年間に、山本および村上両氏はそれぞれの協会の会長を務め、助産婦との交流のほとんどが両氏を通じて行われた。協会全体との定例会議では、研究プログラムにおける提案された変更について説明し、問題または所見について協議した。ABCCが比治山の新しい施設で事業を開始した1950年に開催されたオープンハウスやバーベキューなどの社交行事には通常は協会の役員のみが出席した。

当然のことながら、数え切れないほどの個人がかかわるこの種の調査では誤解が生じた。通常これは、新生児を診察中の医師が家族に対して発する配慮の足りない言葉が原因となっていた。その言葉は付き添いの助産婦に伝えられ、助産婦は当然腹を立てた。このような摩擦は我々には直接報告されることはなかったが、助産婦が山本氏または村上氏に不満を伝え、両氏を通して素早く我々も害された感情について知ることができた。

これらの問題を解決する慣習ができ、我々は書かれていない台本の中の各自の役割を知るようになった。問題が広島で起これば、私を含めその時に遺伝プログラムの広島での責任者であった者が武島晃爾医師に付き添われて山本氏を訪問した。

我々が彼女の家に着くといつも暖かく迎えてくれ、いつもの2階の心地よい部屋に通してくれた。座るとすぐにお茶が出され、挨拶が終わると、彼女は、感情を害した助産婦からどういう知らせがあったのかを説明し始めた。医師が正しかったにしろ正しくなかったにしろ、無視できない言動上の過ちを犯したことは明らかであった-助産婦の協力はプログラム全体にとって不可欠であったのだ。

私は山本氏に、その医師は若く最近採用したばかりであるが、思いやりがあり、故意に失礼な発言をするような人間ではないと説明した。侮辱の意図はまったくなかったことを私は確信していた。医師の言葉はあまり啓発的とは言えなくとも正直な発言であり、実際これは研究員全体の特徴であったといえる。

しかし、彼女が必要と感じるならば問題の医師が助産婦に謝ることを提案した。彼女は常に半分抑制した笑みを浮かべて-というのは彼女自身も儀礼を守る必要性を理解していたからであるが-我々が提案したことはありがたく思うが、そのような大げさな行為は必要ないと言った。彼女は助産婦に電話をし、我々の訪問と懸念について説明し、2度と同じことは起こらないと彼女自身が確信していることを伝えてくれた。

物腰や外見は異なっていたが、山本氏と村上氏は明らかに協会の会員からその技能、経験、外交的手腕ゆえに、とくに協会とABCCとの関係において尊敬されていた。私は山本氏の方をよく知っていたが、彼女は小さく痩せており、普通は年相応の小さい柄で地味な色の着物を着ていた。60代後半で髪全体を後ろで束ねていた。皮膚には年齢が刻まれ浅黒く、とてもか弱く見えたのでいつも心配になるくらいであった。もの柔らかで敬語をよく使い、みんなの祖母のようであった。しかし彼女の瞳に潜む輝きと、助産婦とその問題を管理する力には弱さは全く感じられなかった。

村上氏はもっと頑丈で、少し若く、丸顔の女性であったが、山本氏に劣らず誠意があり、同様に能率よく協会を管理していた。

山本氏と村上氏はすでに亡くなっている。しかし、彼女たちが出産を助けた多くの子供たち、また彼女たちが惜しみなく貢献した遺伝プログラムは今でも生き残っている。


この記事は RERF Update 2(3):6-9, 1990に掲載されたものの翻訳です。

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