MillerのABCC-放影研の想い出、1953~1990年 第2部

MillerのABCC-放影研の想い出、1953~1990年:第2部

メリーランド州ベセスダ 米国癌研究所 臨床疫学部門 Robert W Miller

ABCC-放影研に長く勤務した同僚の逸話

学術結果を伝えるときの問題

私はABCCに契約期間より6カ月長くとどまり、春に開催される米国の小児科研究学会で発表しようと、原爆被爆後10年間の子供たちの所見の報告を急いで作成した。論文は発表用として認められず、それは今もってショックである。恐らく小児科の研究としてはこれまで取り上げられなかったような題材だったからであろう。似たような経験が日本でもあった。4年に1度開催される日本医師会の特別総会で、私は海外からの著名なゲストとして子供たちに見られた原爆の後影響について話す予定になっていた。ABCCは長い間情報を公開しないことで非難されていたことに対し、隠すことは何もないことを示すチャンスがやって来たわけである。しかし、私の講演にはほとんど誰も来なかった。日本の子供たちしか罹らないと考えられていたよく起こる致死性の下痢の病気、えきりについての講演が同時に開催されたからである。そして10年後、原爆20周年に、記者が何か新しい記事になるものはないかと探し回ったあげく、被ばくが胎児の脳に与える影響を発見したというわけである。

花嫁探し

滞在を6カ月延長したおかげで、別のことが追求できた―花嫁探しである。私の日本での社会生活の範囲は限られているだろうと思っていたので、意図的に1年契約を結んでいた。日本人女性があんなに魅力的であるとはまったく知らなかった。日本へ旅行した人たちのほとんどは大金持であり、後の時代の旅行者のように日本の様子を広く伝えるようなことはしていなかった。私にとって最も魅力的であったのは中川春子であり、これまで39年間、彼女の性格と私の性格はうまく溶け合い一体となってきた。彼女は、現在比治山ホールと呼ばれる1953年に建てられた独身寮(BOQ)で開かれた新年昼食会で英語の名をつけられた。誰かが、外国人のために彼女は覚えやすい名前を持つべきだと提案したのである。Hollyという名が春子の愛称のようで、またクリスマスの季節にふさわしかった。彼女は始めは、Harry Trumanのようにそれは男性の名前だと反対したが、その名前を受け入れた。7週間の後、私たちは神戸の米国領事館で結婚した。私たちが結婚した日にアーケードの屋根が落ちた。広島の本通りのアーケードは15cmの積雪に耐えられるように設計されていたが、その日は18cmの雪が降ったのだった。

原爆乙女

1955年に帰国する直前、The Saturday Review of Literatureの編集者Norman Cousinsと内科医William M Hitzigが、25人の若い女性を選び、ニューヨークで火傷による酷いケロイドを小さくする手術をするため来広した。 CousinsとHitzigは原爆乙女が入院している間と、退院してから病院近くのクェーカー信者の家族と生活する期間に、彼女たちの文化的橋渡しとなってくれる人を探していたが、なかなか見つからないでいた。ABCCの臨床部を訪問中、Cousinsがそういった人が必要であることを口にした。ちょうどその時彼は完璧な候補者、横山ハツ子(アメリカ人職員にはHelenの名前で知られていた) の机の横に立っていた。彼女はまさにその役目をABCC内科医と患者たちの間で行っていた。Helenは米国生まれで、心理学で学位を取りUCLAを卒業し、日本に戻ってきていた。彼女は初め原爆乙女たちに同行することに不安を感じていたが、原爆乙女に会い、彼女らの苦しみを見た時、その不安を克服した。彼女の旅行用の書類は整い、すぐに出発できた。私たちがHelenに会いに行った時知ったことだが、ニューヨークでは予想通り、その1年間様々な問題が起きた。そのことの一部はRodney Barker著The Hiroshima MaidensとAnne Chisholm著Faces of Hiroshimaの2冊の素晴らしい本に書かれている。

原爆乙女たちが治療のため渡米した際、ABCC臨床部職員 横山ハツ子(前列、おさげ髪の少女の右に座る)は 2つの文化の橋渡しの役を果たした。

Helenは今は退職し広島近郊にいるが、彼女が、彼女しか知らない、乙女らの話の裏話を書いていればよかったのにと思う。彼女がいなければ、その後他の者たちが同じことを計画して失敗したように、この大胆な企画も失敗に終わったことであろう。

米国学士院、1955~1957年

私たちは1955年6月上旬にニューヨーク州ローチェスターに戻り、4カ月間失業していた。放射線の影響を専門とする小児科医など誰も必要としなかったからである。その分野は狭すぎた。Tax Connelが米国学士院(NAS) のABCC研究業務助言者としての職を去るという噂を聞き、その職に月契約で就き、2年間いた。私の上司は生化学者であり最高の管理者であったR Keith Cannanだった。彼はNASの医科学部門の議長であり、委員会運営の達人であった。数多くの委員会に出席し、審議が前に進むように提案し、必要な場合には報告書を書き直し学士院のもつ高水準に達するようにした。素晴らしい師であった。
NASに到着してすぐ、彼と委員3名のFrancis委員会が日本に向けて出発した。ABCCは学術的に崩壊寸前であった。Thomas Francis Jrはソークポリオ・ワクチンの画期的な実地試験を終えたばかりであった。彼は急性疾患疫学の専門家であったが、慢性疾患の長期研究という考えに順応できたであろうか? 他の2名の委員はNASの医学統計調査部統計研究員Seymour Jablonと米国立心臓研究所統計主任研究員Felix Mooreであった。それまでABCCに派遣された助言者は、大学関係の医学専門家であり、彼らの日本での病院訪問は実質的というよりも儀礼的なものであった。基礎科学を専門とするCannanが、ABCCは疫学の専門家の助言を必要としていることを察した最初の人であった。 Francis委員会は3週間かけて情報を収集し、現在でも放射線影響研究所の研究調査の基盤として役立っている学問的構想を作り上げた。諮問が生んだ驚くべき成功であった。
1957年、エール大学疫学教授のGeorge B DarlingがABCCの所長候補として浮上した。Cannanは彼と研究・運営面について語り、私は彼と夫人に日本での生活について話した。二人は2年契約でその申し出を受諾し、15年間滞在した。DarlingはFrancis委員会の勧告を実施し、ABCCの生産性だけでなく融和も向上させた。 Cannan、 Francis委員会、そしてDarlingの貢献については、 RERF Updateに S Jablon、槙 弘、定地憲爾が他の視点から書いている。
Cannanはまた、米国の大学などの部門から研究者を交代制でABCCへ派遣させる協定を結んだ。エール大学は内科医、UCLAは病理学者、NASは生物統計学者を出した。また、友人の米国衛生研究所長James Shannonの所へ行き、国立衛生研究所が募集した公衆衛生医師を2年間ABCCに若手研究員として派遣するようにもした。派遣された者の中にはその後Johns Hopkins病院の副院長・理事にまでなったRobert M Heysselや現在エール医科大学長であるGerard N Burrowなどがいた。私の仕事はCannanに医学に関する助言をし、ABCCで発見された放射線の影響について話し、米国から派遣する人材を募集・採用することであった。
日本での経験から、医者としては珍しく私の関心は疫学にあるということが分かった。この分野で正式の訓練を短期間受ければ、私は視野を広げることができるだろう。が、学校に戻ることなど考えられなかった。その時James V NeelがCannanを訪れ、William J Schullと共同で、血族結婚(いとこ同士の結婚など)から生まれた子供たちの健康を、ABCCの遺伝調査で診察した72,000人の中の非被爆者である子供たちと比較しようという計画について話した。当時、日本における結婚の約7%はいとこ結婚であった。約3800人の血族結婚による子供と同数の非血族結婚による子供の総合的な検診を実施することにした。

1955年、ABCCの同僚や友人(内科医であり、有名な作家でもある蜂谷道彦がMiller夫妻の間後方に見える)が、著者(左) と妻Hollyに別れを告げた。

小児科部長がこの計画に必要だった。期間としてはAnn Arborで1年、次に広島・長崎でそれぞれ1年、その後Ann Arborに戻って私自身の研究の解析・報告に1年必要であった。 Ann Arborでの1年目、私は公衆衛生学での修士号候補に挙げられ、最後の1年間に公衆衛生学の博士号を得るための論文を書くことになっていた。
Cannanは送別昼食会に私をコスモ・クラブへ招いてくれた。私たち2組だけの昼食会ということであった。ところが部の職員約20人がそこにいた。本当に不意打ちパーティーであった。私たちは1957年9月、Ann Arborに向けて出発した。


Robert W Millerの回想録第1部RERF Update 5(4):7-9, 1993に、第2部は6(1):9-10, 1994に、第3部は6(2):8-10, 1994に、第4部は9(2):12-14, 1998に掲載されました。この記事はそれを翻訳したものです。Dr.Millerは1994年4月27日に米国癌研究所の名誉研究員になりました。

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