ABCC-RERFの思い出

William J Schull (常務理事1978年、1986-1987年、1990-1991年、
副理事長兼研究担当理事1979-1980年、1995-1996年)

William J Schull

40年前、長崎にABCCが初めて開設されたころ、長崎の町は現在とは程遠い有り様でした。原爆による被害が一帯を覆っていました。 大学は修羅場と化し、基礎医学の建物の焼け跡には基礎だけが残っている状態でした。近くのコンクリートの建物(大学病院)は、外壁だけが残り、ひさしや窓枠が壁面にぶら下がっていました。建物の後方に立っていた二本の高い煙突のうち、一本は無事でしたが、もう一本は傾いて危険な状態でした。1945年当時、日本で一番大きいカトリック教会だった浦上天主堂は、わずかに残った赤レンガの壁面が天空へ延び、アーチを描いた石の門は雑草の生えた空間へと広がっていました。また教会の周囲に立っていた石像は、かつてはシャルトル、ダーバン、ライム、聖ペトロ大聖堂などの聖像ほど尊厳はなかったかもしれないが、今、破壊されたとはいえ畏敬の念を抱かせるものでした。市内電車は軌道を外れて浦上のあちこちに残骸をさらし、かつて多くの家が建っていたこの地には、バラックが散在する有り様でした。

市の経済は打ちのめされ、失業者があふれていました。大きな雇用先である長崎の重工業は、ほとんど活動停止の状態でした。主要物資はまだ配給制で、満足に食物を得られる人はほとんどなく、外来者にとってはなおさらのことでした。したがって新しい研究施設が求めることのできる地場資源は本質的に何もありませんでした。事実、予定された調査研究を進めるための適当な場所さえなかったのです。したがって調査研究は、後によりよい施設が得られるまでは仮の施設で始められました。1950年、ABCCはようやく教育会館に移転することができました。この会館は、先年、蛍茶屋に現在の建物ができるまでABCC及び放影研の本拠としての役割を果たしてまいりました。

終戦直後の一年間を除けば長崎には大部隊の進駐はなく、占領軍の存在としては、小さな軍政府とときどき見られる軍服姿の来訪者くらいのものでした。軍政府の所在地は、あとで原爆病院のできたところですが、その資金調達についてはABCCも一役買っていた訳です。市内の家屋を何軒か日本調達庁から借り受け、この小さな軍政府の家族のために使っていました。松田邸は軍のBOQとして、また短期滞在者の宿舎として使われていました。これらのハウスのうち幾つかは、その後ABCCのスタッフの宿舎として使われるようになりました。

広島と同様、最初に手掛けたプログラムの一つは被爆の子供の検診、いわゆる遺伝調査で、最初の一年程ほとんどのスタッフはこの科学調査に携わったのでした。毎日毎日、晴れの日も雨の日も、新生児の家から家へと我々のジープは走り回ったのです。各家庭には我々の感謝の気持ちを示すため、そして手みやげという日本の伝統にならって、赤ちゃんの沐浴のための石けんを小さなおみやげとして差しあげたのです。その他の調査研究としては、胎内被爆児の生長発育及び最初の診察があります。プログラムの拡大につれて日米双方の人員は補充されていきました。初期の職員名簿をふり返ってみると面白い発見があります。岡政、浜屋、沢山のお嬢さんたちや、現在の長大医学部長松田先生など、現在の医学界の顔触れが多数見掛けられます。亡くなられたロバート・クラタ先生はそのスタートから1949年秋まで、長崎における調査研究の責任者でした。間もなくジェイムス山崎博士、及びフィリス、スタンリー・ライト博士御夫妻が参加され、そのいずれも国家試験にパスした小児科医でした。この先生たちは胎内被爆児調査を拡大し、系統的小児科検診のスタートと、被爆二世の臨床追跡を行い、更に被爆者本人たちの検診にも及んだのでした。放射線障害の最初の特別調査が始められ、被爆者の被爆環境についてより詳細に調べる努力が払われました。

私が調先生に初めてお会いしたのもこのころでした。正確に言えば1950年のことです。調先生は御自身被爆者であり、気さくな親切な方で、先生の友情に触れることができたのは私にとって幸せなことでした。先生は当初から我々の調査研究を強力にサポートしてくださり、調査研究の改善のために貴重な時間と経験を提供してくださったのであります。山崎先生、サムエル木村両先生の要請を受けて、調先生はある一つの非公式な会合を開いてくださいました。その会合では調先生をはじめ被爆した病院関係者多数が出席し、8月9日当日及びその後の体験談を詳細に話していただきました。私としてはこのときほど、この悲劇の人間に及ぼす打撃の大きさに心を痛めたことはありませんでした。この人たちの苦しみは私には体で感じることはできませんでしたが、気持ちの上ではわかったつもりでした。

プログラムの調整を長崎、広島間でつけていくことは困難でした。電話連絡はままならず、また両市間の旅行も非常に遅く汚ないものでした。当時は広島-鳥栖間、鳥栖-長崎間も電化されておらず、ディーゼル機関車もまだ使われてなくて、石炭の蒸気機関車が人や動物や地面にすすをまき散らしていた時代でした。もちろん速達便があったので緊急な連絡は度々この速達便で送られたものでした。私を含めプログラムの責任者はほとんど広島に在住していましたが、定期的に長崎に出張しておりました。

1950年代半ばから後半にかけて、特に1954年3月、臨床遺伝プログラムが終了した後は、長崎での活動はものすごく揺れ動きました。広島ほど大規模な活動はなく、変更が頻繁に行われました。しかし、フランシス委員会によって提唱された統一プログラムが開始されてからは、事態は改善されました。1957年、永井 勇先生が長崎ABCCの責任者として赴任され、初めて長崎のリーダーシップが示されるようになりました。1959年夏、CHS(児童健康調査)が前年の広島に引き続き長崎でも開始されました。かつて会館の広さは、毎週一回夕方から三階でスクェアダンスでもできる程のものでしたが、CHSの開始当時にはスペースはぎりぎりでした。会館の東側に別棟を増設して診察室にあて、事務所用としては電車通りを隔てた醤油工場の近くの木造二階建ての古い建物を使うことになりました。CHSの事務室は一階で、連絡課その他の課が二階だったと記憶しております。成人健康調査の開始と児童健康調査班の到着で、てんやわんやのにぎわいでした。その当時を「黄金時代」だったと懐かしくふり返る人もいます。しかし私たちの思い出には、新大工町の本通り近くにあった喫茶店‘コロンビア’で過ごした長い時間も含まれるかもしれません。また長崎の経済状態が回復したのを反映しているのかもしれません。すなわち造船は好景気になり、食糧は配給制がなくなり、金まわりもよくなってまいりました。 1960年、長崎にはかつてない強力な専門職、技術職、事務局のスタッフがそろいました。アメリカの専門職員10名以上、更にそれに倍する日本人医師が配属されていました。Richard Blaisdell先生は臨床部長、Jann Brown先生は病理部長、Zdenek Hrubec先生は専任の統計解析員でした。当時の若いドクターたちの多くは、その後立派な学術上の役職に就任しています。その一例として、Gerald Burrows先生は現在トロント大学内科主任教授で国際的に認められた内分泌学者であります。

当時私たちの地域社会とのつながりは現在以上に密接だったと思います。その理由としては、外人の数が多かったこともありますが、宿舎が夫婦川、南山手、住吉その他市内各地に散らばっていたせいもあります。近所の住人として私たち個人のつきあいもあり、また個人のつきあいを通じてABCC、CHSへの理解も深まり、絶えることのない友情が育ちました。

長崎における地域のサポートは初めからすばらしいもので、すべての調査研究における受診率は非常に高く、また現在までも続いているわけですが、CHSについては随分御迷惑をかけたのではないかと思います。しかし、いろんな不便にもかかわらず99%以上の参加率が得られました。歴代市長、県市医師会長、大学等、我々の調査研究を支援してくださり、それぞれの職務を新しいイニシァティブに導いてくださったのであります。例えばCHSが始まったころ、当時の田川 務市長は我々の提唱するプログラムを熱心に支持してくださっただけでなく、その表明として、発刊されたばかりの長崎の歴史の本に自筆の署名をして贈呈してくださいました。このような協力態勢の現れとしては、長崎県・市医師会は現存する腫瘍登録、組織登録について支持を与えるのみならず、我々みんなが望んでいた資源活用へ向けてこの両登録を発展させるべく、積極的かつ建設的指導を続けてこられたのであります。

一つの研究機関として、我々はこれまで過去の推移に影響を受けたのは事実ですが、今は将来に向けて頑張らなければならないときです。幸い、我々にはその存在そのものをうんぬんする必要はなく、我々の研究の重要性は論議の余地もありません。しかし我々の約束を果たし、使命を達成するためには、科学の分野で起こっている変化について常に検討を加え、それに応じて機構を改善していく必要があります。単に生物学的に何が起こったかを知るだけでは十分ではありません。なぜ起こったかを知らなければなりません。その洞察がなければ、私たちは知的に豊かになれないばかりでなく、被爆者の方々の心からの願いである争いのない世界の実現も難しいのではないでしょうか。


この記事はABCCニューズレター 14(4):15-17、1988に掲載されたものです。

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