ABCC-放影研40周年を迎えて

Gilbert W Beebe (統計部長1958-1960年、1966-1968年、
疫学統計部長1973-1975年、研究担当理事1975年)

Gilbert W Beebe

1945年11月に、私は当時担当していた月報“Health of the Army”に記事を書くため、原爆の影響を調べるための合同調査団に参加した後、日本から帰国したばかりのAshley W. Oughterson大佐にインタビューしました。その時には私の研究が原爆の影響に関する調査に緊密にかかわってくるとは思ってもいませんでした。 数か月後、米国学術会議(NRC)の退役軍人医療問題委員会が、第二次世界大戦における米国軍人の医療歴を活用した研究プログラムの実施計画を評価している際に、日本における原爆被爆者の長期的調査の重要性に関するOughterson大佐からKirk軍医総監あての重要な覚え書きのコピーを大佐が委員会に提供しました。

1946年11月26日にTruman大統領が海軍省覚え書き(Shields Warren博士作成)に署名したことにより、この覚え書きは、政府機関の協力を得て調査を開始するよう米国学士院に命じる大統領指令の効力を持つこととなりました。 そしてこれに対応して設立されたNRCの原爆傷害委員会(CAC)が、これらの調査を担当することになりました。退役軍人医療問題委員会は、医学統計調査室を通じて実施される米国退役軍人の調査のみを担当することになり、Seymour Jablon氏と私はその調査にも関与しました。

Seymour Jablon氏と私は、両委員会が置かれていたNRC医学部の職員との協議を通じて、CAC及びCACが支援している日本の原爆傷害調査委員会について十分な情報を得、1951年までの白血病に関する初期の所見について知り、CACは、日本の研究機関(ABCC)の設立及び管理に携わってきてはいるが、長期的研究計画の発展にはほとんど関与していないことを認識しました。広島の死亡率に関するWoodbury-槇報告がWashingtonに送られてきた結果、疫学的問題が注目されるようになりました。 1955年に発表されたFrancis報告をもたらした訪日視察団の団員をR. Keith Cannan博士が選出していましたが、その団員構成もこれにより影響を受けました。その時の訪日の際の、またその後Francis報告の勧告を実施した際のJablon氏の果たされた役割により、ABCCの臨床部門を指導したYale大学及び病理部門を指導したCalifornia大学Los Angeles校と並んで、Cannan博士は最終的に、統計部門で指導的役割を果たす機関として医学統計調査室を選出されました。それにより私は初めて日本を訪れ、ABCC統計部(後の疫学統計部)部長の職を二年ずつ三回(1958~60年、1966~68年、1973~75年)務めました。Jablon氏も同職を三年ずつ二回(1960~63年と1969~72年)務められました。局の他の職員も同部で合計12人年勤務しました。私の最終任期が終わりに近付いたころ、日米政府がABCCを放影研に改組することに合意し、Crow委員会が米国学士院を代表してABCCプログラムを検討しました。私は新しい研究担当理事が着任するまで、同職を兼務することになりました。
1977年に米国学士院を退職してから放影研と公式なかかわりはありませんが、強い関心をもち続け、幾度か放影研を訪れましたし、放影研の研究成果を広く利用させていただいております。また私は、米国癌研究所と学士院との契約を通じて、同研究所と放影研が現在の関係をもつようになったことにも尽力しました。


この記事は放影研ニューズレター14(40周年記念特集号):22-23、1988の再掲です。

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