予研の協力

永井 勇 (ABCC準所長、予研長崎支所長、1957-1975年)

ハッピをはおったDr. Darlingと語らう筆者

光陰矢のごとしとは本当ですね。重松理事長からお手紙をいただいて、胸をつかれる思いでした。本当にあれから40年になります。

私がこの事業にかかわりをもったのは、1947年(昭和22年)10月のことでした。そのとき初代所長Tessmer中佐一行に、初めて厚生省予防局長浜野先生の部屋で、予研初代所長小林六造先生たちのお供をして会いました。一行の中には軍装で胸に拳銃をつっていた人も数人見えました。このことは、当時GHQのSams准将の要請によるものでしたので、ともかく引き受けることとなり、同年11月私が初めて広島に下調べに出掛けました。当時広島では戦後のことで泊まる旅館もない状態でした。その結果、ABCCは宇品の凱旋館を改装して仮の施設を作り、予研は昭和22年度追加予算等を得たのが手始めでした。

翌23年、本予算といってもほんの蚊の涙ほどの予算を得て細々と協力を始めたのであります。その後も人事問題、労働問題、平和条約発効後のABCCの地位の問題等、思い出せば数限りなく多くの難問がありました。

こんな困難の最中に、槙 弘先生に広島に行っていただくことになり、曲がりなりにもやっと協力の形が出来上がりました。その間、私は東京の予研本所にいて、協力のお世話をしていましたが、1957年(昭和32年)長崎に予研代表として行くことになりました。

ABCCの施設は、初め宇品の凱旋館にあったものを現在の比治山に移し、本格的な施設としました。その開所式の日、職員一同の感慨はひとしおでした。あるアメリカ人の職員はその思いにたえず、涙を流したのをまだ覚えています。それほど画期的なことでした。研究調査課題も、その方法が多数集団調査の結果を統計学的に処理するという、それまでの我が国にとってはやや異なる方法であるため、時々は国内研究者との食い違いもありましたが、業績は大いに見るべきものがあったと思います。

国内の研究も大いに進展して、一応出尽くしたかに見えますが、この問題はそんなに簡単に結末がつくものではないと思われます。現在も、なお時々異なる角度からの考察によって、しばしば見直されている状態ですので、更に更に掘り下げて考えることが必要であると思います。現在研究に当たっておられる方々の一層の御活躍を希望致します。

思えば、この間に数え切れないほど多くの方々に巡り合い、私を励まし鍛えてくださったことを今もなお有り難く思っています。鬼籍に入られた方も多く、今も懐かしく思い出に残っています。私も十数年前に退いてしまい、皆様と疎遠になってしまいましたが、放影研が今後長い間に、ますます発展されることを祈っております。


この記事は放影研ニューズレター14(40周年記念特集号):17、1988の再掲です。

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