前例なき挑戦に直面したABCC初期の時代

ミシガン大学医学部人類遺伝学・内科学名誉教授 James V. Neel

手本にできる類似のプロジェクトもないまま、ABCC-放影研の創始者たちは科学、行政そして異文化が交叉する新しい舞台へと踏み出したのだった。

1946年当時、Dr. Neelは43年後にも依然としてABCCと関わりをもつことになろうとは夢にも思わなかった。写真は1983年に放影研で講演中の筆者。

現在放影研で働いている人々や、そこを訪れて様々な資料と順調に機能を果たしている研究活動を目にした人々が、この研究所の創設時代を想像することは非常に困難であろう。残念ではあるが、当時のABCCに勤めていた日本人職員および関係者は私の知るかぎりすべて退職しておられ、現在のプログラムを築きあげるまでに経験した多くの困難を直接知っている人はひとりも残っていない。

原爆の影響について最初の組織的な追跡調査が試みられたのは1945年9月であり、その時は米陸海空軍の調査団が日本側調査団と共同で被爆直後の後影響を評価した。一般に合同調査団と称されるこの調査団は1946年半ばに報告書をまとめ、そのなかで長期的追跡調査を実施できるよう措置を講ずることを勧告した。勧告にはさらに、この調査に関与するに最も適切な米国側機関は米国学士院(NAS)であることが示唆されていた。NASは当時から科学分野における民間と政府間の橋渡し的な準公的機関で、このような計画の調整役として特異な存在であった。合同調査団の勧告は最終的にHarry S. Truman大統領に承認され、NASはこの新しい責務を果たす第一歩として数名の顧問を日本に派遣することを決定した。

ABCCは戦争で荒廃した日本中を第406医学総合検査施設を使用して移動する調査班として発足した。それは連合軍専用列車に連結された3つの車両からなり、スケジュールに従って調達された。左の写真は、簡易寝台に腰掛けている筆者、東京大学外科学教授の都築正男博士、 Dr. Melvin BlockおよびDr. Austin Bruesが寝室兼用の移動研究室で作業を行っている様子。

私自身この計画に最初に関与したのは1946年11月のことで、当時米国陸軍医務班に所属していた私は突然、Melvin Block中尉およびFrederick Ulrich海軍中尉と共に、NASより任命された2人の民間顧問医、Dr. Austin BruesとDr. Paul Henshawに同行する任務を受けた。私が指名された理由の1つは、米国陸軍で遺伝学博士の学位をもっていた者は私以外にいなかったことであり、遺伝学調査を実施することになればそれに関連する何らかの責任をもたされることを私は当初から理解していた。

ABCCは初めのころ、放射線の影響に関心ある日本人研究者に広く助言を仰いだ。この写真は1946年東京における会議の時のもので、前列左よりDr. Nakahara、Dr. Henshaw、Dr. Sasaki、Dr. Brues、後列左よりDr. Neel、村地博士、都築博士、Dr. HigashiそしてDr. Ulrichである。

11月下旬に日本に到着した我々一行5名は連合国最高総司令部(GHQ)公衆衛生福祉課内で活動するよう指示された。占領下におけるすべての活動には適切な名目が必要とされており、Dr. Henshawが最初に我々5名をAtomic Bomb Casualty Commission (原爆傷害調査委員会)と呼ぶように提案したと記憶している。

これは1946年12月6日、広島市長主催の昼食会の後に撮影されたABCCの初期の主役たちの顔である。前列左より市職員、Dr. Ulrich、Dr. Neel、都築博士、後列左よりDr. Saida、市職員、Johnson大佐、Dr. Henshaw、Dr. Brues、Dr. Volk、松林博士、Dr. Blockそして厚生省の正式な代表であった尾村博士。Johnson大佐とDr. VolkはGHQに任命された随行であった。

我々5名の小集団は約6週間かけて、東京、大阪および京都で日本人研究者と会った。広島・長崎の状況調査もしたが、1947年1月に民間顧問医とUlrich海軍中尉が米国へ帰ったためBlock中尉と私はいささか不明確な立場に置かれてしまった。我々は広島に戻ることにし、そこで外科医志望であるBlock中尉は一部被爆者に顕著であったケロイド痕の要因解明に努め、私はもう一人の若い軍医で横須賀の海軍基地での任務を解かれていたFrederick Snell海軍中尉と協力して被爆当時脱毛症を呈していた学童の血液調査を開始した。 Snell海軍中尉、私そして石橋洪一が得た所見を記した報告書はABCCが許可した最初の出版物(Archives of Internal Medicine 84:569, 1949)ではなかったかと思う。またこの時期、私は満足できるような遺伝調査の計画を作成しようと非常に多忙な日々をおくっていた。

1947年6月、NASに新たに組織されたCommittee on Atomic Casualties (原爆傷害に関する委員会) への報告のためワシントンに呼び戻され、それからの3カ月はNASが召集した別の特別委員会に遺伝調査計画を提出するなどして多忙を極めた。その計画は承認され、私は研究班編成にとりかかった。しかし一方で私はABCCの当座の所長として広島へ再び赴くよう要請され、そのため占領下の日本での事業を進める最良の方法について何度も会議を重ねることになった。その年の夏の終りまでには米国側遺伝班の核となる3人のチームを編成した。陣容は細胞遺伝学者の小谷万寿夫、データ処理技術者のRichard Brewerそして小児科医のRay Anderson中尉であった。

9月に再来日した私には2つの責務があった。1つにはこの計画のために必要な物理的設備の確保に取りかかることであり、いま1つは、必要な調査プログラムの実施と日本人職員の採用に着手することだった。ここで認識すべき重要な点は、この種の長期にわたる疫学的調査の前例が皆無であったこと、すなわち我々の参考になる手本がなかったことである。

当時はGHQの政策により、すべての米国側の活動はそれに相当する日本側機関と緊密に連携して行うことが必要とされており、GHQ公衆衛生福祉課長であったCrawford Sams大佐は我々に新しく組織された日本の国立予防衛生研究所(予研)と連携するよう指示を出し、後に予研は原爆影響を取り扱う部署を設けたわけである。もちろん予研でもこの種の調査は経験したことはなかった。1947年当時我々が直面した課題の大きさを今日理解することは困難である。原爆がもたらした破壊により調査に使える設備は何も残っていなかった。被爆者と研究職員の双方にとって交通および通信の便は悪く、今日我々は患者との連絡およびスケジュール調整が容易にできるのが当然であると思っているが、当時はそのような楽なことは全くなかった。しかし科学的見地からもっと重要であったのは、これが科学的に前例がない調査となるという事実であって、それは日本の文化と伝統的習慣に合致するように進めなければならないし、さもなくば成功しないだろうということであった。

設備に関して言えば、とりあえず場所を確保して、より恒久的な設備の計画も始めなければならなかった。有意な放射線量を受けた被爆者が広島には長崎の2倍以上いると考えられたため、広島に主力が注がれることになった。広島で当面必要なことに関して、私は宇品の海岸通りにあった凱旋館に場所を確保できるよう交渉した。凱旋館は元軍関係の会館で爆心から十分離れていたため大きな被害を免れた。そこには事務所と、いずれ建造される建物の材料を保管しておける未使用の講堂があり、海上、鉄道および車での交通の便も良く、隣接して駐車場もあった。同じころ、私は広島市にも協力を要請して恒久的施設の候補地探しを行った。我々の第一候補は市中心部にあった旧軍関係の施設跡だったが、私の選択はその後NASの顧問建築士であったSigmund Pheifferに否決された。現在放影研のある比治山は私が選んだ勤労者の市街地区よりも確かに風景に恵まれているが、交通の便が悪かった当時は、心理的にも実際面でも問題があった。

調査活動について言えば、私は遺伝学調査を軌道に乗せることに集中し、被爆者の医学的調査のための職員採用はNASが担当することで了解済みだった。ごく初期の段階で我々は赤十字病院の外科医で日系二世の武島晃爾博士に接触していたが、同博士は我々に日本の慣習を教えてくれただけではなく、日本人医師の採用に関しても大変重要な役割を果たしてくれた。広島市衛生部の松林錥三と共同で私が考えた計画は、配給物資をもらうため広島・長崎いずれかの市に妊娠を登録した女性すべてを調査に組み入れるというものであった。出産時には担当の助産婦および(または)医師からABCCに予備報告をしてもらい、それによりABCC職員である医師が母親のもとを訪ね、新生児の検査をした。回数は忘れて久しいが、私はほんとうに何度も助産婦協会と話し合って協力をお願いし、また必要手続きについての指導をした。

この計画を実施するには実に精緻な記録保存システムが必要であったが、1948年3月までにはすべて形を整え、所長の責務をCarl Tessmer中佐に託して、私はミシガン大学の職に戻った。遺伝学調査に関連し、1989年に再び日本を訪れることになろうとは当時考えも及ばぬことだった。


この記事は RERF Update 1(4):7-8, 1990の翻訳です。

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